08/01/21

●映画では、ショットはいきなり途切れるし、いきなりはじまる。それに、原理的には、あるショットの後に、どんなショットでも繋げられる。そこに何かしらの「根拠」はなくてもいい。この感じは、ゴダールの映画を観ていると特に強く思う。DVDで観ていると、えっ、何いまのモンタージュ、とか思って、手元のリモコンで、ついつい巻き戻してもう一度みたりしてしまう。(何度も観ているはずなのに。)そういう風に映画を観るのはあまり良い事だとは思わないので、なるべくしないようにしているのだけど、ゴダールの映画では、ついついしてしまう。というか、ゴダールは、そういう風に観ることを前提にして編集しているとしか思えない。ある意味、どこから観始めて、どこで観るのをやめてもいいような感じでもある。
『勝手に逃げろ/人生』はとても好きな映画で、何度も観ているのだけど、それでも、えっ、いまの何、と思って、何度か巻き戻してしまう。ゴダールの映画では、画面や音で、あまりにも多くのことが同時に起こっているので、字幕を読む余裕がない。(それに、だいたいいつも同じようなことしか言ってないし。)多くのことが同時に起こっているということは、焦点がないということで、ある部分に焦点を合わせていれば、その焦点との関係性(遠近法)で全体の構図が見えてくるということがない。つまり、常にがちゃがちゃしていて、集中できない。タバコを取り出して火をつけながら、電話をかけるために受話器を取り上げ、ダイヤルしながら受話器を肩に挟んでタバコを手に持ち、ダイヤルするのを中断してコーヒーをすすり、背後から声をかけてくる人に対応し、通話先の人と言い争いをしながら、タバコを手にしたまま、背後の人が髪や肩を触ってくるのをとりなし、タバコを吹かしたかと思えば、唐突に背後にいる人とキスをする、という感じ。そこには一つの流れにはまとめられない複数の流れが同時にあり、ある流れが唐突に途切れたかと思うと、別の流れが唐突にそこに加わる。こういう感じが面白くて仕方がないのだけど、それが「面白い」という感覚を人に説明するのは難しい。
『勝手に逃げろ/人生』の冒頭近くで、ナタリー・バイが喫茶店で何か書き物をしていて、窓の外にちらっと視線をやり、コーヒーを持って来たウェイトレスの方に向き直って、今の音楽は何?、と聞くと、ショットは仰角ぎみのウェイトレスのクローズアップに切り替わり、そのウエイトレスがふいに振り返るタイミングでショットが途切れ、全然関係ない他のテーブルの客のミドルショットに切り替わる。この流れというか、モンタージュを、とても面白く思うのだが、その理由はよく分からない。まるでナタリー・バイの視線で繋いだかようなウェイトレスのアップへのモンタージュが、しかし実はその視点ではありえない方向から撮られていることで、空間がふっと膨らみを増し(何か「別のもの」の視点を想起させ)、それが他の客のテーブルのショットへの、さらなる空間の広がりの萌芽となり、それを誘発する、からだろうか。
あるいは、緑の芝生の広がる広い場所で、地域の大勢の人たちが集まって何かスポーツのような催しをしているところを捉えるロングの横移動のショットが、ゆっくりと右から左へと動いてゆくと、自転車を押したナタリー・バイが左からフレームインしてきて、彼女の動きにあわせて、カメラは左から右へと動きをかえる、というショット。この、空間のひろがりと、そこに人が大勢集まり、点在し、それぞれバラバラに何かしている、という感じを(いかにも、田舎の休日の催し物という感じを)、こんなに見事に一つのショットに納めている例を、ぼくは他には知らない。(同じゴダールの『ワン・プラス・ワン』の最後の海岸でのショットもそんな感じだが、そのショットではゴダールの「走り」こそが素晴らしいのだった。)それが面白くて仕方がない。例えばアンゲロプロスなどは、もっと大げさに、仰々しく、同じようなことをするのだが、そこには「休日の催し物」的な、ゆるんだ空気とひろがりはない。ゴダールは、本当に何気なく、そういうすごいことをする。