●花粉症のせいで集中が長くつづかないので、『ストーン』(ソクーロフ)と『アワーミュージック』(ゴダール)を、三十分くらいずつ交互に観た。『ストーン』『アワーミュージック』『ストーン』『アワーミュージック』『ストーン』『アワーミュージック』と。
ソクーロフはごくシンプルなことを示すためにものすごく手間をかける。シンプルなことを成立せるための熱量と本気度が半端ではない。調律のおかしいピアノからたどたどしくたちあがる「音楽」、とうとつにフレームを横切る鶴のような鳥の「運動」、異様に近く、また異様に遠い二人の人物の「距離」、ミニチュアにしか見えない超俯瞰の「風景」等々。しかし、だとするなら、これを「シンプル」と言ってしまってよいのか。それをシンプルだとするのはたんに言葉の格子ごしにしかものごとを見ていないということではないか。
●レクチャーを聞いた学生たちのなかでオルガだけが(作中人物である)ゴダールの言葉を真に受け、受け止めたとしても、それを(作中人物である)ゴダールは知らない。さらに、オルガがそれに触発されて行動を起こし、それによって死んでしまったとしても、ゴダールにとってボスニアでの講演は数多くある「お仕事」の一つでしかない。仕事が終わればさっさとスイスに帰ってのんびり花などを栽培しているし、ボスニアで出会った人のことだって忘れている。きっと、オルガから受け取ったDVDさえ観ていないだろう。しかしだとしても、ゴダールの何かがオルガに伝わり、オルガのために栽培していたわけではない花は結果としてオルガへとたむけられることになる。そしてオルガの行動も、誰だか分からない誰かにきっと何かを伝えている。それらは無関係といえばまったくの無関係だけど、世界は(出来事は)そのような無関係によって関係しあっている。ゴダールは映画-モンタージュによってそのような無関係である関係を探そうとしている。