●これは雑な思いつきの話で、自分でもツッコミどころが多々あると思うのだがメモとして。
ゴダールが女性を撮るときの態度は基本的に、(1)広告やグラビアや映画に出ているモデルや女優といった消費社会的なアイコンとしてあるようなイメージを引用する感じ、(2)絵画に描かれた女性像を引用する感じ、オブジェとしてうつくしい顔や身体、あるいはそれ以上の何かへと繋がるもの、(3)有名、無名を問わず(フィクションも含め)既に存在する人物をそのまま引用する感じ、その人物の存在をそのまま映画のなかに借り受ける、その存在と共に歴史や文脈を背負った存在として、という三つくらいの傾向があると思う。これは女性に限らず男性を撮る時も同様だけど、女性の方がより明確にそれが見える。
(1)の場合、ポップなイメージと戯れつつもそれへの肯定と批判との両者を含むし、(2)の場合も、絵画の礼賛や古典絵画による権威づけではなく、映画による絵画の搾取とも言えるような、絵画を切り刻んで接合し直す強引な絵画の映画化がなされている。とはいえここでは、イメージの批判というより礼賛というか、ポジティブな色合いが強くなる。(3)の場合、直接その当人が撮影されることもあれば、歴史上の人物やフィクションの人物が固有名として(別の身体によって、写真や絵として、あるいは固有名としてだけ)引用されることもある。(1)を代表するのがアンナ・カリーナで、(2)はミリアム・ルーセルだろうか。(3)でもっとも際立つのは女性ではないがゴダール本人かもしれない。勿論この三つはきれいに分けられるのではなく、その都度、様々に複雑なやり方、様々な配合で組み合わせられる。
でも、『アワーミュージック』のオルガは、そのどれとも異なるように感じられる。映画が具体的な誰かを撮るしかない以上、オルガ役の人は実際に存在する特定の誰かなのだが、同時に、誰でもない誰かであり、ある抽象的な形象や概念をあらわすような何かでもある感じ。いや、そういうことよりもたんに、他の人物と撮り方(イメージの質)が違うように見える。ゴダールは何でもとてもうつくしく撮ってしまえるから、『アワーミュージック』でも、この主題をそんな風に「美」に回収しちゃっていいの…、思うところも多々あるのだが、オルガについてはゴダール的なうつくしさとは別種の何かがあるように感じられる。非常に洗練された筆致で描かれた絵画のなかに、唐突に素朴派的な人物が一人だけ書き込まれているかのような違和感がある(マネの絵のなかにルソーの人物がいるかのような)。そしてそれが強い力をもっている。
ただ、いままでのゴダールにそのような感じがまったくなかったということはないと思う。ちゃんと確認していないあやふやな記憶として思い浮かぶのは、『ゴダールの決別』のロランス・マスリアとか、『フォーエヴァー・モーツァルト』の生き返った死体の女性とかに、オルガに近いイメージの感触があったように思う。
(ただ、オルガに限らず、ゴダールの女性へのまなざしそのものが変化しているということも言える、『映画史』以降、いわゆる「ゴダール好みの美人」を撮らなくなった気がする、つまり「違う種類の顔-イメージを必要としている」のだと思う、すべての作品を観ているわけではないが、ぼくが観た最後の「ゴダール好みの美人」は『映画史』のジュリー・デルピーだと思う)。
●で、突飛なようだけどオルガのイメージからぼくが思い出すのがセザンヌの「水浴図」なのだ。ぼくはずっと、セザンヌがなぜ「水浴図」のような絵を描かなければならなかったのか、いまひとつ納得できなかった。(初期作品以外では)奥さんと老婆以外の女性を描くことのなかったセザンヌが、晩年になって、森のなかで水浴する女性の裸体の群像(女性だけではないけど)などという、ある意味で陳腐とも言える幻想的な光景をライフワークのように重要な主題として描くのはなぜなのか、と。
でも、最近、その感じがすこしずつ分かるような気がしている。それは、マネの「草上の昼食」のような批評的なイメージのモンタージュ(ぼくは、マネのイメージの接合はシュールレアリスム的だと思う、まあ、シュールレアリスムよりクールだし、絵画としての質はまったく異なるけど)でもないし、ルノアールのような素朴な生(エロス)の礼賛でもない。あるいはマティスの「ダンス」のような、感覚や運動の純粋性のようなものでもない。その感じを言葉にすることは今はまだ全然できないけど、それはサントヴィクトワール山を捉えようとしたことの先にある、地質学的な幻影のようなもので、幻想的な幻影によってしかつかめない具体性とでもいうべきものなのだと思う。それは、初期の頃のようなロマン主義的なものへの回帰とか、神話的な光景というより、セザンヌはきっと、サントヴィクトワールという石の山や、ごつごつした石切り場のなかに(その先に)、森で水浴する人物たちのイメージを、かなり具体的に「見た」のではないかとさえ思う。地霊のようなもの、実在しないからこそ具体的であるような何かとして。
そして、『アワーミュージック』のオルガも、そういう種類のイメージであるように感じられる。
●関係ないけど、ウェス・アンダーソンの新作はもう絵映画館にかかっているのか。YouTubeで予告編を観るだけで口元が緩むし、同時に泣きそうにもなる。