●一日じゅうずっとパソコンの前にいると、絶対すごく嫌な、怖い夢をみる。それは恐怖というより、もっと直接的な打撃に近い何かだ。斧で、顔を正面からズバッと斬りつけられる夢を何度も見て、その衝撃で何度も目が覚める。あるいは、脳のなかで何かが爆発して、自分の頭部が炸裂する夢を見て、その衝撃で目が覚める。あと、部屋で眠ろうとしていると、どこからか鬱陶しいおっさんが入って来て、なにかと眠ろうとするのを邪魔するので、なかなか眠れないという夢を繰り返しみて、イライラして目覚め、でも、眠れないっていう夢を見ている間は眠っているのか、と思うのだが、ちっとも寝た気がしなくてイライラが増す。そうやって何度も何度も目が覚めては、あらためて眠ろうとする。
●ピカソについて考えていた。「アヴィニョンの娘たち」から、分析的キュビズム、パピエ・コレ、コンストラクション、総合的キュビズム、という時期の。この時期の充実した作品群を見ると、それが1906、7年からせいぜい十年くらいのことなのだということに驚く。これは常識的なことだが、この時期のピカソには二つの導きの糸があり、一方はセザンヌであり、もう一方はアフリカの彫刻だ。そしてこの二つの導きの糸は決して混じり合うことがなく、そしてピカソは最終的にはセザンヌではなくアフリカ彫刻から多くを学んだ。というか、ピカソはアフリカ彫刻に教えられるようにして、自身の資質を発見したのだと言えるのではないだろうか。
アフリカ彫刻からの影響は、例えば「アヴィニヨンの娘たち」の女性の顔が仮面みたいだというような表面的なことではなく、パピエ・コレやコンストラクションにこそみられる。一方、セザンヌからの影響は、主に分析的キュビズムの時代にかぎられていると言えるのではないか。ぼくが思うに、ピカソはまず第一に立体の人であり、次いで線の人であり、けっして色彩の人ではない。実際、後世に与えた影響という意味で言えば、ピカソの最も偉大な作品は「ギター」のようなコンストラクションの作品で、二十世紀後半の重要な前衛的美術作品のほとんどが、そこから生まれているとさえ言えるのではないかと思う。マッスにまったく頼ることなく彫刻を成立させること。平面的なピース(素材)を構造的なズレをもって組み合わせることで空間をつくり、動かすこと。モチーフ(ギター)と作品との類似関係が、単純な類似によるのではなく、部分的な類似(つまり部分的にはまったく別の要素も侵入し得るから、「それ(ギター)」でありながら「別のもの」へもずれ込む)、構造的な反転関係、隠喩的、換喩的、提喩的な関係であり、それらの異なる種類の関係がハイブリッド的に組み合わされたものであること。これらの点は、それ以前の伝統的な彫刻とはまったく異なっていて、ピカソにそれを可能にさせたものこそ、アフリカの彫刻だろう。国立民俗学博物館で観た時に驚いたのだが、アフリカの彫刻(特に仮面)には既に、これらのことが全てあるのだ。ピカソのコンストラクションとアフリカの仮面とは、形態として似ているのではなく、構造として似ているのだ。
一方、キュビズム初期の、セザンヌを真似たようなスケッチを観ると、似ているからこそ、セザンヌとピカソの資質の違いがはっきりする。セザンヌにとって黄土色と青の違いは色彩の違いなのだが、ピカソはそれを、どうしても明暗としてしか使えない。あるいは、セザンヌにとって絵画を構成する基本的な単位は筆触なのだが、ピカソにとってそれはパズルのピースのような「小さな形態」であり、そして線である。ほとんど線の登場しないセザンヌの絵で、辛うじて登場する線の何と緊張していることか(つまりセザンヌは線が異様に下手なのだ)。それに比べピカソの線は自信に満ちている。ピカソが最もセザンヌに近付いた(似ているということではなく、画面の組成が構造的に近いということ)分析的キュビズムの時代に、極端に色彩が抑制され、画面を成り立たせている基本的な要素が線と明暗であったことは、ピカソの資質からして正しい選択であったのだと思う(分析的キュビズムの達成は偉大なものではあるが、ここでピカソが自らの資質を強く抑制していることは間違いないと思われる)。だが、ここでピカソが、色彩をどうしても明暗としてしか使えないということは、ピカソが実は平面の人ではなく立体の人だということをこそ、示しているのではないか。そして、線というものが基本的に空間のなかでの運動なのだとしたら、やはりピカソは立体の人だということになる。
この時期に限らず、ピカソがたまにさらっとつくる彫刻作品は素晴らしいものが多い。やはりぼくは、基本的にピカソの空間把握力が、絵画よりも立体に向いていると思う。だいいち、彫刻では絵具が(色彩が)濁ることがない。
そして、分析的キュビズムから総合的キュビズムへ、そしてパピエ・コレやコンストラクションの制作は、ピカソにとって自身の資質を取り戻すことであり、それはセザンヌからの決定的な離脱を意味している。それ以降のピカソは、一度もセザンヌ的であったことがない。それを可能にしたのがやはりアフリカ彫刻であり、つまりそこでは、作品を構成する基本的な単位が「小さな形態」であることが大胆に肯定され、その形態をズレをもって組み合わせたり、部分的に類似によって組み合わせたり、比喩的な感触によって組み合わせたりすることが可能になり、それによってモチーフと作品との関係が非常に複雑になり、作品とモチーフとの距離の伸縮の操作がかなり自由なものとなる。これは、セザンヌにとってモチーフ(自然)が絶対的なものであるのに対し、ピカソにとってモチーフは、作品を開始するちょっとしたきっかけ程度の意味であるという決定的な違いを示している(アフリカの彫刻は、その生活や環境、呪術的な力などと密接に関係しているから、その点ではピカソとは大きくことなる)。セザンヌにとって自然=世界は、林檎でありサントヴィクトワール山であるのだが、ピカソにとって自然=世界は、自らの「描く身体」の力動の方により重きがかかっている。