●昨日のつづき。ピカソの話。
アフリカの彫刻にはピカソのコンストラクションにあるものの多くが既にあるが、ピカソにあってアフリカ彫刻にないのが、視線をどこかに着地させず、常にずれ込むように動かしつづけさせるような構成だろう。基底面を複数つくり、視線を決して決着させないよう常に不安定に動かしつづけるような構造は、ぼくにとっては作品をつくる時の普通のバランス感覚だと感じられるのだが、もしかしたら世界的にみてヨーロッパ芸術にだけみられる特異性なのかもしれないと、最近、ちょっと思うようになったのだが。
ピカソのコンストラクションにおいて、それは、(1)作品の軸が常に中心からずれている、あるいは複数ある。(2)同一の形態を複数箇所で反復させ、それに(色をかえたりして)ちょっとしたズレをもたせる。(3)ことなる形態、あるいはことなる構造的意味(位置)をもつ細部に、同一の徴(同じ色とか、同じ模様)をほどこして繋がりをつくる。(4)ある一定方向への動きや力を感じさせる細部の形態に対し、それに対応し、拮抗するような逆向きの力が作用する細部を別の場所につくって、作品全体としては細かな動きが互いに相殺して作品全体としてはバランスをとるのだが、ある動きと、それに対応する動きとか、軽くすれ違うようなズレをつくっておく(完璧に拮抗してしまうと動きがとまってしまう)。と、だいたいこのような手法によって実現されている。全体をみるとバランスがとれているのだが、細部に注目するとどの部分も必ずバランスが崩れているので、視線は次々と細部から細部へと移ってゆき、その動きが解決することはなく、その動きのなかでいつの間にか基底面さえずれ込んでゆく。
キュビズムの時期全体を通して、絵画でもパピエ・コレでもコンストラクションでも、ピカソが作品を「動かし」てゆくテクニックはだいたい似たようなものなのだ。この時期のピカソにとって、作品の中核となる二つの軸(大抵、どちらかが顕在的でどちらかが潜在的なのだが)が、微妙なズレをもってダイナミックに斜めに交わる構造が、作品の動きをつくっていて、それは人物画だろうが、静物画だろうが、ほとんどかわらない。この、作品を大胆に斜めに横切って、ぐっと動かす軸の感じこそが、ああ、ピカソだと思わせるものだ。しかしそれでも、それがただテクニックの次元に留まっている作品と、もっと根本的に、基底面そのものがぐぐっと動いてゆくような作品とでは、作品の感触として全然ことなるのだが。
対して、アフリカ彫刻では、作品の細部の造形や、細部同士を結びつきを制御するシンタックスは非常に複雑で高度なのだが、作品全体の形態は大抵シンメトリカルであり、スタティックである。ぼくが国立民俗学博物館で観た仮面で、立体的で、犬のような形をした口の部分と、人間の顔を平面化したような目と鼻の部分と、全体のバランスからみると立派すぎるような二本の角とが繋ぎ合わされたような仮面があった。これは、動物の口が、人間の顔を基準にすると顎にあたる所についていて、(説明がわかりにくいと思うのだが)それを床やテーブルの上に置くと、全体として動物の頭部の形の彫刻に見えるのだが、壁にかけると平面化された人間の顔の部分が基底面になるので、仮面のようにみえるようにつくられている(角の部分は、どちらが基底面になっても成り立つ角度でついている)。つまり、二つのことなる基底面と、そのどちらでも成り立つ部分の、三つのいわば次元のことなる細部が、非常に高度な造形的操作によって結びつけられている。ぼくはこの仮面に非常に強く惹かれたのだが、それはともかく、ここでは、二つのことなる基底面の一方からもう一方へとずれ込んでゆく「動き」は発生せず、全体としては、それは自然に溶け合って、安定しているように見えるのだ。つまりここでは、近代的なヨーロッパ美術にある、絶え間ない視線の運動を喚起させる不安定な状態(その「動き」のなかである「経験」を発生させる)ではなく、静かで安定的な視線によって、ある隠喩的な深さ(人間と動物の融合、あるいは人から動物へのメタモルフォーゼの感触)へと視線を導くようになっている。この感触に、近代の芸術とはことなる感触を感じて、感動し動揺もした。