●昨日は、アラタニウラノで坂本夏子展も観たのだった。とても面白かった。
形が歪むのではなく、空間そのものが歪む。さらに、異なる歪み方をした複数の空間が、一つの画面の上に重ねられる。この時、それぞれに異質であるはずの「歪み方の異なる空間」たちを重ね合わせ、繋げている基底である、画面(平面、絵画)とは一体何なのか。
(例えばエッシャーの作品は、一枚で一種類のパラドクスを示す。しかし、「滝」と「夜と昼」と「Hand With Reflecting Sphere」と「描く手」とを、一枚の画面に重ねて描くとしたら、どうするのか。視線が、あるパラドクス空間から、別のパラドクス空間へとシームレスに移動できるとして、複数のパラドクス空間のすべてを含んでいるメタ・パラドクス空間とは、どのようなものなのか。)
そんな基底は、実はどこにもないとも言える。基底とは、画面を見て、ある歪み方の空間から、別の歪み方をした空間へと視線を移動させている(視線を連続的に移動させつつ、意識を不連続的に変化させている)、観者の「意識の基底」の連続性ということになるのか。
(実際には空間は歪んではいない。そこにあるのは一つの連続的な、四角い平らな面である。平らな面の上に、歪んだグリッドや装飾模様や波を描くことで、空間が歪んでいるかのようなイリュージョンを生んでいる。その様々な歪みのイリュージョンが重ね描きされている。平面とは、その上にどのようなイリュージョン(歪み方)をも発生させられる、メタ空間であり、底なし沼であろう。)
多くの絵で、人物が描かれている。彼女たちこそが、複数の「異なる歪み方」をした空間を通り抜け、自らの歪み方を変化させつつも、事前と事後の空間たちを結び付けている、変化すると同時に変化しないものとしての基底面なのだろうか。