東京ステーションギャラリーの「UBSアート・コレクションより」は、ぼくにはあまりぴんとこなかったけど(ルシアン・フロイドのどこがいいのかさっぱり分からない、こういう絵を描く美大受験生って昔いっぱいいたよね、とか思うだけだ)、ホックニーのジョイナー・フォトは素晴らしかった。ジョイナー・フォトをはじめて観て「すごいな、これ」と感じたのはもう三十年以上前になるけど、今観ても、その時のような驚きと新鮮さとを感じる。
ジョイナー・フォトっぽい表現は、写真だけでなく、映像などでもけっこう頻繁に目にするし、もはやありふれた死んだ手法とさえ言えると思う。この方法は誰でもけっこう簡単に真似できて、そこそこのものがすぐにつくれる。ぼく自身もさんざん真似をした。つまり、ホックニーは、誰でもが割と容易によい作品をつくれる、とてもよい方法を発明したのだと思う。そして、改めてホックニーのジョイナー・フォトを観ることで、その「よい方法」のなかには未だ、重要なもの(謎)が含まれているということを確認できる。
ごく大雑把に、セザンヌの一つのタッチ(「一つ」というより「三つか四つのひと連なりのタッチ群」と言うべきかもしれない)を、一枚のスナップショットで代替して、イメージを構築していると言える。ただ、セザンヌの描くタッチ群は、それ自身では、タッチの置かれるリズム、色彩のグラデーション的変化、タッチの連なりのつくる形、を示すのみで、それらタッチ群の差異、配置、集積によって、はじめてあるイメージが浮かび上がる。一方、ジョイナー・フォトは、基本単位が「一つのショット」であるから、そこに既に、小さなイメージと小さな空間が含まれている。この違いは、作品のあり様の違いとして大きいものだと言える。
ショットは、一枚一枚撮られるのだから、各ショット間には時間のズレがある。時間的にズレている複数のショットを平面上に配置して、一つにつながった空間を表す。この時、ジョイナー・フォト全体として一つの空間を表象していると考えるならば、時間が空間化されている(時間は空間に従属している)。しかし、一つの空間が、時間的に異なる多数の切片の集積として出来上がっている(時間のモザイクとして空間が出上がっている)と考えれば、ジョイナー・フォトとして現れているひとつの空間は、時間化した空間だと言える。
ここで、時間の空間化と、空間の時間化の自由な双方向性(というか、識別できない混ざり合い)が成り立つのは、各ショットが一つの「平面」上に配置されているからだ。平面全体を、一望的に一つの空間として観ることが出来、その時には、各ショット間にある時間は隠蔽され、空間に従属する(完全に隠されはしないけど)。しかし、細部を観ようと近寄っていくと、各ショット間のズレと不連続性が見えてきて、そこに時間が発生する。ズレたものの配置が時間を表現しているのだから、空間が時間化している。
しかしこの時に時間は、空間のズレであり不連続性としてあるから、順番を持たない。仮にショットが四枚あるとして、各フレーム間の時間差が、1、2、3、4という順番で流れたものなのか、4、2、1、3という順番だったのか、それとも2、3、1、4なのかは分からない。四つのフレームによって示される時間の幅とズレの生むリズムだけがあり、順番が消える。ここで、順番を生むのは眼が追う順番であり、認識が追う順番ということになる。つまり、一つのジョイナー・フォト作品のなかには、そこに貼られた写真の枚数の、順列組合せの可能性の数だけ、異なる順番があり得る。二次元だからこそ、四次元的感覚を「表現する」ことができる。
一望可能な、あるいは3D座標によって捉えうるような空間を否定せずに、しかし、その都度、一回一回の「見ること」が、それぞれ異なる関心、欲望、図と地、パースペクティブから生まれ、それら、そもそも不連続なものたちの無理やりの貼りあわせ(時間の貼りあわせ)として成立する、歪みと穴に満ちた空間もまた、同時に受け容れ、重ね合わせて表現することができる。歪みと穴に満ちた空間から、三次元座標的に表現できる空間が抽出され、また、三次元座標的空間が、歪みと穴に満ちた空間を含んでいて、そっちへと解凍することもできる。
●カロの作品(「オダリスク」)は、モノとして美しいと思うけど、作家として、あれはアリなのだろうか。六十年代に、美術史に残るような革新として自分が創造したテーブルピースの作品の、リテラル版というか、ぶっちゃけ版というか、その具象的再解釈を、ポストモダンの時代であった八十年代に、自分でする、というのはどうなのだろうか。いや、いい作品なんだけど、これをやってしまうのは自分(カロ)的にアリなのか……。