●銀座、なびす画廊で杉浦大和展、ギャラリーせいほうで舟越直木展、そしてシネスイッチ銀座で『ファンタスティックMr.FOX』(ウェス・アンダーソン)。
●多くの人は絵画のなかにイメージを見出すことで力尽きてしまう。もう少し「絵を観る」力がある人であれば、画面上にある諸要素間の、配置や関係や構造を空間として立体的に感じることが出来る。ここで言う空間とは、三次元的な空間というより、諸要素間の関係や構造、あるいは構造の揺らぎや動き、その崩壊する地点等々を、理解し把握するというよりも、立体として触感として、実在する物のように「感覚する」、というような意味だ。しかし、おそらく杉浦大和の作品を「観る」にはそれだけでは足りない。
杉浦くんの作品では、そのそれぞれすべてのタッチが、異なる時間平面上にある(ここで「時間平面」なんていう言葉が出てくるのは「ハルヒ」からの影響)かのように感じられる。それは、空間的に同時に、そこあるのだが、それらの要素が時間的なズレをもって知覚される、というのではなく、それぞれ別の時間のなかに配置され、決して同時には「そこ」にないものたちによって構築されたもの、という感じがする。なぜか、同時にはないものが、一枚の絵として一挙に与えられてしまっている。(勿論、どんな絵でも原理的に、あるタッチと別のタッチとでは、それが置かれる時間に隔たりがある。しかそれを、空間として配置するか、空間化しないというか、空間とは別の秩序によって配置するか、の違い、と言えばよいのか。)異なる時間上に配置されたそれぞれのタッチが、もう一つ次元が上にある何物かによって関係づけられている。空間内に同時に配置されたものを、ある一定の時間のなかでその関係が読み解かれ、それが空間として立体化して感覚される(空間として一挙に与えられたものでも、それを「観る」には事実上一定の時間がかかる)、という出来事の、もう一つ次元が上のことが行われている感じ。ある時間と別の時間とを関係づける、時間以上の何かによって構築されたものとしての絵画。だから(絵の全体がそこにあり、見えているのに)その全体を俯瞰的に見る位置が与えられていない。
このタッチとあのタッチとは違う時間に属する。この赤とこの緑とでは違う時間に属する。あるいは、赤と緑との時間差よりは、赤と黄色の時間差の方がやや近い位置にあるかもしれない。しかしここで、「やや近い位置」という風に、ある時間と別の時間との関係を、空間的な言い方で言ってしまっているのだが…。こういう言い方をするしかないように、本来、ある時間と別の時間とを関係づける時間の外の何物かを人間が知覚し、感覚することは不可能で、このような記述自体、心霊に近いきわめて胡散臭い言い方でしかないのだが。
これはあくまでも、ぼくにはそう感じられるということで、杉浦くんがどう考えて制作しているのかは知らないし、それとはまた別の(きわめて胡散臭い、ほとんどほら話のような)話だ。でも、言えるのは、杉浦大和の作品を、ある限定をもった平面的なひろがりのなかでの、タッチや色彩の配置(関係)という捉え方(だけ)で捉えることは出来ないということは確かだ、ということ。現代絵画には、抽象表現主義からフラットベッド、あるいはポップアートへとゆく流れとは根本的に異なる別の水脈が確かに存在するのだが、未だ誰もそれを明確に言語化することは出来ていない。
●杉浦大和の作品が、人に感覚の拡張を促すような、現代絵画としか言えないようなものであるのに対し、舟越直木の作品は、もっと原初的な、人類が「絵を描く」ということを始めた場所にとても近いところで描かれているように感じられた。
視覚的な像を生み出すというより、紙のなかから像を掴みだす、あるいは、像そのものに触れる、という欲求から生まれているように思われる。触覚的な像という言い方はあまりに安易だが、見るものでも触れるものでもない像を紙から掴み、引き出す、という感覚。
例えば彫刻であれば、粘土の塊からある像を掴みだすことにおいて、感覚と具体的な行為との間に割合とすんなり繋がりを見出せると思うのだが、絵では、それは決して直接的な形ではつながらない。絵を描くことは、どこまでも平たい平面の上を滑ってゆくことになり、掴もうとしても何も掴めない。でもそれが、絵として描かれている。おそく、掴むように見るというより、見るように掴むことが欲望されている。
つまり、触れられるものに触れるのではなく、触れられないものに触れたいからこそ、絵という、直接的ではない触れ方である必要があるのではないか。
描かれるのは人物で、多くが「顔」であった。それは、造形的に捉えられる「頭部」としての顔ではなく、まさしく、その人がその人であることが端的にあらわれるものとしての「顔」だと思う。ある特定の人の顔であるというより、「その人がその人であることが端的にあらわれる」形式である「顔」そのものを掴みだしたいという感じだろうか。頭部には触れることが出来るが、そのようなものとしての「顔」には直接触れることは出来ない。だから、描くことによって触れる、見るように掴むことが要請される。
多くの像は不鮮明であり、時としてそれは、掴みだすというよりも遠ざかるという印象を受けもする。しかしその不鮮明さはあいまいさとは根本的に異なる。触れようとしても表面を滑るだけであり、掴み出そうとしても遠ざかるばかりであるような「顔」が、その雲を掴むような過程のなかで、ふっと生々しく浮かび上がる瞬間があり、その瞬間が固定されていると思われる作品が何点かあった。
直木さんの作品を観ながら、ボルヘスの「円環の廃墟」を思い出した。直木さんが絵を描くことは、あの小説の夢のなかの過程にとても近いのではないか、と。もしかしたら本当に、架空の一人の人間を絵を描くことで生み出そうとしているのではないかとさえ感じた。そういう作品に見えた。
ぼくにとっては、「人の顔を描く」なんていうことは本当に途方もないことで、生きているうちにぼくにもそんなことが出来るようになる日がくるのだろうかと思うのだが…(似顔絵とかキャラクターとか肖像画というレベルのことではない)。
●二つの充実した展覧会を観て、自分のなかにある「なにかを受け入れる容量」がもう一杯になってしまったので、せっかく銀座にまで来たけど今日は映画はパスしようと思って、東京駅の方へ歩いて、八重洲ブックセンターをぶらぶらしているうちに、今日観なかったら結局観ないことになるだろうと思い直し、銀座方面に再び向かった。
●『ファンタスティックMr.FOX』は、あらゆる細部がいちいち気が利いていて、才能ってこういうことだよなあ、才能がある奴には逆立ちしたって勝てねえなあ、と、落ち込まさせられながらも、それをはるかに上回る幸福に満たされる映画で、見ている間じゅうずっとにやにやしていた。観ている間じゅう幸福だ、ということ以外には何もいらないんじゃないかと思える。観てよかった。見逃さなくて本当によかった。パペットアニメの特徴を必ずしも十分に生かしたというわけではない、というところに、絶妙のセンスの良さを感じる。キツネの体型一つとっても、うわー、こうくるのか、という感じ。