(ちょっと、昨日のつづきっぽい)
●以前に何かの本で読んだうろ憶えなのだが、人間の目がものを詳細に見られるのは視界の極めて狭い中心部に限られていて、そのため、視線はつねに細かく動きつづけることで、見ているものの全体像を構成するそうだ。つまり、目は決して一挙にイメージを把握するのではなく、複数の視覚的なデータを構成することで、イメージを構成し、空間を把握する。そして、目は、動いているものを追う時にはそれに沿ってスムースに(連続的に)視線を動かすことが出来るのだが、止まっているものを見るときは連続して視線を動かすことが出来ず、視点は部分部分を飛び飛びに移動する。(つまりヒッチコックの『裏窓』の冒頭のショットのような視線の滑らかな動きは人間には出来ない、と。)このことは、絵を観ている時に感じられることと重なる。絵を観る時、フレーム全体のイメージを一挙に把握してから、細部へと視線を移すのでは(実は)なく、絵の様々な細部を時間をかけて追うことで、全体像を構成して、把握する。(離れた位置から観られた、作品全体のなんとなくの雰囲気のようなものは事前に把握されていて、その雰囲気として把握された「全体性」が、その絵画作品なかで視線を動かす時のガイドラインと言うか「安心感」のようなものになっている、ということはあるかも知れないが。しかしまた、その安心感が、視線の動きのなかで崩されたりもするのだが。)この時、視線は絵のなかを連続した流れとして移動するのではなく、部分部分を断続的に捉えるように動いてゆく(つまり、視線の動きには常に隙間というか、ブランクが差し挟まれている)。視線は、ある部分から次の部分へと滑らかに流れるのではなく、次の部分へと「ジャンプ」するのだ。この、ブランクをもつ視線の移動(ジャンプ)によってしか静止画を観ることが出来ないという人間の目の性質は、絵画によるイメージや空間の構築と深く結びついているように思う。絵は動かないからこそ、それを観る「目」は活発に動くのであり、また、その時に、どのような視線の動きを誘発するかということによって、絵画のイメージや空間の質が決定されるのだと思う。(そして、ブランクの存在によって、絵画は一つの平面のなかに複数の平面を折り重ねて配置することが出来る。)だから絵画は、その中で実際に視線が(能動的に)動くための空間であり、そして、視線の動きはそれ自体として身体の運動であると同時に、もともと人の視覚的な把握は、空間のなかでの身体の運動の可能性を探るものであるのだから、絵を観るという行為は、身体的な運動感覚を駆動させ、運動感覚ときわめて密接に結びついていると思う。例えば映画を観る時、映画は自動的に動いているイメージであるから、それを観る身体は動きを止め、見ることは身体的な運動から切り離された、降り注いでくるイメージを受動的に受け止めるという、純粋に「見ること」に近づくのだと思う。それに対し、絵画が観る人に与えるのは、そのなかで(視線が)動くことの出来る空間であり、観る人はそこに身体的に参入する(その空間のなかで動く=視線を動かす)ことによって、はじめてイメージがたちあがる、と言えるのではないだろうか。映画を観ることは、電車に乗って窓の外の風景を見るような感じなのに対し、絵を見ることは、自分の足で歩いて散歩する感じに近いのではないかと思う。(実際、映画館では人は椅子に座って動かないのだが、美術館や画廊では、絵から次の絵へと、歩いて移動する。)