大阪へ行って来た(3)

(つづき、大阪へ行って来た。)
国立国際美術館ゴッホ展は、予想していたとはいえ凄い混み方で、ゴッホの絵は決して大きいものではないので、人がわっと集まると、もうまったく観られない状態になる。これはもう絵を観る環境ではなくて、つくづく、タブローというのは「小さな」メディアなんだと思った。絵は、どこか静かなところに展示されて、せいぜい一日に数十人の観者を受け入れるのがやっとなのだ。だから絵が(絵の影響が)「広がる」ということがあるとすれば、それは「複製技術」によるものでしかなく、絵ははじめからある程度「複製技術」を折り込んだメディアなのかもしれない。それは、写真や印刷による複製ということだけでなく、例えば工房での大量制作とか、弟子による模写だとか、模写の模写だとか、多数のフォロアーによる様式の伝播だとか、そういうものを含めて。そしてそれによって「広まる」ものもあるが、当然「失われる」ものもある。
ゴッホはあまりにも有名であり、誰でもがゴッホを知っているし、誰でもがゴッホの描いた絵を知っている。そのことが、ゴッホの絵を観ることを困難にする。例えば、ピカソを「わけのわからない絵」の代名詞として使用する人が「ピカソみたいな絵」と言う時、その人の頭のなかに具体的なイメージはほとんど発生していないだろう。しかし、「ゴッホみたいな絵」と人が言う時、そこにはおぼろげながらにでも具体的なイメージ(ひまわり、だとか、糸杉、だとか)が発生しているのではないか。ゴッホの描くイメージは、あまりにも明快であるがゆえに、「ピカソ=わけがわからない」というような言語的な次元の処理だけで済ますことは許されず、ゴッホという名前には必ず、あの色彩、あの形態、あのタッチ、が貼り付いてきてしまう。(ゴッホ=狂気の画家という言語的な結びつきよりも、ゴッホ=あの色彩という、イメージによる結びつきの方が強い。)「ピカソ」と「わけのわからない絵」という結びつきは、ごく弱くしかイメージを介してしないので、目の前に実物のピカソの絵が置かれた時、それを「新鮮なもの」として受け入れるのは、それほど困難なことではないと思われる。(はじめから「知覚」を信じず、名前や権威や文脈にしか興味のない人は別だが。)しかし、「ゴッホ」という名前と結びつく「あの色彩」「あのタッチ」は、視覚的なイメージであるため、目の前に実物があるにも関わらず、そこから知覚されるものを、前もって持っているイメージのなかに押し込めてしまいがちになるのではないだろうか。(余談だが、ぼくは「良くない画家」ほど最悪の絵画の観者はいないと思っていて、そういう人は、絵画についてよく知っていて、技法や技術をも身につけているからこそ、自分の目の前にある「実物」から、自分が「知っていること」しか観ようとしない。)
しかしそれだけでなく、ゴッホの絵の観づらさは、そのイメージの質そのものにもある。例えばピカソは、見せることと見せないことの複雑な配置、配合によってイメージを巧みに組み立て、視線を誘い込み、絵のなかに視線を留まらせるのだが(見せることと見せないことのせめぎ合い、振幅、振動、の強度を最も高め、高めすぎてほとんど破壊してしまった画家がセザンヌだと思う)、ゴッホにおいてはイメージはあくまで明快であり、全てがあからさまに「見えるもの」として露呈されていて、「見えないもの」は「見えるもの」の背後に隠され、逃れ去ってゆくのではなく、全く別の場所からやってきてイメージの裏地ぴったりと貼り付いている、という感じなのだ。だからゴッホの絵では、視線が絵のなかに長時間留まり、絵のなかに留まってさまよう視線によって絵を「味わう」ようなことは困難で、視線は、イメージの明快さと強さによって弾き返され、揺さぶられ、打ち砕かれる、というような感じで、絵(イメージ)は、観るというより(直接的、身体的に)刻みこまれる。
ゴッホが孤高の画家であり、狂気の画家であるという固定した見方を、ゴッホが同時代の最新の美術の動向に敏感であり、それを積極的に学んでいたという事実を示すことによってひっくり返そうという「啓蒙」に意味がないとは思わない。しかしそれは、ある固定したイメージ(一つの「呪い」)を、別の固定したイメージ(別の「呪い」)に書き換えるというだけのことではないのだろうか。実際、ゴッホが孤高の、狂気の画家であるということは、ゴッホが勉強熱心であるということと、同じ程度には正しいことであるように思う。そして、この程度の啓蒙ならば、実際に作品を展示しなくても、カルチャーセンターのスライドでの講義などで十分に可能なのではないだろうか。必要なのは「別の呪い」なのではなく、作品そのものに語ってもらうことによって「呪い」を解き、そこから多少なりとも自由になれるような装置であり、呪文であるのではないだろうか。(せっかく「実物」が展示してあるのだから。)「呪い」を解くカギは、何よりも作品そのものにしかないと思う。
今回のゴッホ展についての最大の不満は、大規模な回顧展にしてはゴッホの作品の数が絶対的に少ないということで、単純に、もっとたくさん見せて欲しいということだ。(ゴッホの作品中でも重要だと思われる、葦ペンのデッサンも観られなかったし。)ゴッホはおそろしく多作で、しかし決して打率の高い画家ではないとぼくは思っていて、「完成された代表作」(あるいは、形式的な意味での完成度)のようなものに向かって制作するようなタイプではなく、常に描きつづけていないけばいられないという(持続する)衝動のなかで作品を生み出していった画家で、まさにその(内的なものであれ、外的なものであれ)「ゴッホに絵を描かせている力」が画面に現れ、それを貫いているような絵を描いていると思う。だから、作品の数が多い程、その「力」のあり様が感受されやすくなるのではないかと思う。
●とはいえ、とても良い作品が何点かは観られたし、国立国際美術館の照明はとてもクリアで、色彩がくっきりと見られたのも良かったので、大阪まで観に行ったかいはあった。