東京都庭園美術館で、アルフレッド・ウォリス展

東京都庭園美術館で、アルフレッド・ウォリス展、銀座のGallery覚で、小林聡子展。
●アルフレッド・ウォリスという画家については何も知らなかった。ずっと漁師をしていて、奥さんを亡くし、七十歳を過ぎてから絵を描きはじめたということだった。別に発表するために描いていたわけではないのだが、たまたまそれを観たベン・シャーンによって見出され、フレームアップされたらしい。
とても良い作品だと思う。しかしあくまで素人の絵だとも思う。素人にしか描けないような、良い絵だということ。決して「素人」というのを軽くみているわけでも、低くみているわけでもない。素人の絵より画家の絵の方が貴重だ、というのでもない。でも、例えばダンサーはダンスをするために自身の身体を鍛錬し組織するし、格闘家は格闘技をするため、ギタリストはギターを弾くために、自身の身体や感覚を組織し直す。そのためには、ハードで持続的な努力がどうしても必要となる。それは画家もかわらない。勿論、ギターは(そして何より音楽は)プロフェッショナルなギタリストのためだけにあるのではない。絵画は画家のためにだけあるのではない。そのことを確認した上で、でもやはり、画家と素人とは、たんにテクニックとか才能ということでは解消されない何かが違う。(ここで画家とは決して職業画家ということではない。ゴッホセザンヌも職業画家ではなかった。あるいは、ピカソなどが多大な影響を受けたアフリカ彫刻の作者たちも、職業としてそれをつくったのではないだろう。)ウォリスの絵を観ながらずっと考えていたのは、では、一体何が違うというのか、ということだった。(展示を観ていて、ある部屋に入ると急激に上手くなっていて、七十歳から始めてもこんなに上手くなるんだと驚き、これだけ描ければ素人なんて言えないなあと思ったら、関連する画家として、ベン・シャーンとクリストファー・ウッドの作品が展示してあったのだった。彼等はたんにウォリスを素朴な画家としてフレームアップしただけでなく、あきらかにウォリスから影響を受けているのがわかる。でも、やはり「画家」の絵は何かが違うのだ。それが必ずしもウォリスよりも「良い」ということではないけど。ベン・シャーンなんてあきらかにウォリスより「弱い」のだし。あと、いままで知らなかったけど、クリストファー・ウッドは、けっこういい画家だと思った。)
ひとつはっきり言えるのは、ある種の単調さということだ。ウォリスの絵ば、どの絵も、同じくらいの熱量と手間が投入され、同じような作業の工程で描かれ、ある一定の同じ「達成」にまで達すると満足されて、筆が置かれる。だから、例えば五点や十点くらいの作品を観るだけだったら、とても魅力的な、説得力のある、それを「描く」という行為そのものを「信じる」に足りるような、素晴らしい絵だと思える。しかし、このようなある程度以上の規模の展覧会として作品をまとめて観ると、ぶっちゃけ、全部同じような絵なので、だんだん「飽き」がきてしまう。どれも同じような絵だということは、まさにその「同じ」である何かこそをウォリスが求めていたということでもあり、そこに嘘や偽りやブレや虚勢がないということでもあり、「本物」であるということなのだけど。
画家の描く一枚一枚の絵というのは、それ自体が「作品」として何らかの充実した「質」が求められているのと同時に、そこに含まれる「未だ可能性でしかない何か」を探る行為の過程でもあり、その試行のヴァリエーションの一つでもあり、新たな別のものへと変質するためのエクササイズでもある。だから、一つ一つの作品において、それをどこからはじめるか、どのようなプロセスをふむのか、それをどちらの方向へと展開させてゆくのか、どの程度に煮詰めるのか、どこで一旦切り上げるのが、が、それぞれ異なる(つまりその都度改めて探られる)のだ。つまり、一つ一つの作品、一つ一つの行程を、いちいち考えたり、迷ったり、時には間違った方向へと踏み外したり、間違ったと思って軌道修正したりして、つくられる。ある作品は、適当にいい感じのところで切り上げて、それ以降の追求はあらためて別の作品でやろうと思ったり、ある作品では、結果として破綻してしまっても、徹底的に煮詰まるまでこの方向で突っ切ろうと思ったり、ある作品ではちょっとアプローチをかえてみようと思ったりする。迷い、考え、他から影響を受け、こわごわ試したり、確信をもってやったことを、次の日には自信がなくなって否定し、しかしまた考え直してこれで良いのだと思ったりする。ある作品では熱くその内側に入り込んで作り込まれ、別の作品では、割合クールに外側からの形式的な操作の意識が強く働いたりする。そしてそれらの揺れ幅の全てがエクササイズであり、思考することであり、思考を深めることであり、その過程の全てが制作することであり、また、画家としての自身の身体を鍛え、形作ることでもある。画家の作品をまとめて観る時、そのような「揺れ」の幅を感知できる。ウォリスの作品に欠けているのはこのような「揺れ」の幅であり、寄る辺のない歩行の足取りだと思われる。(ぼくはウォリスと同様の「単調さ」を大竹伸朗の作品からも感じるのだが。)
●あと、絵画は風土と切り離せないものだと、改めて思った。ウォリスやウッドの描く海の「緑色」はいかにもイギリス的に渋くくすんでいて、南仏やイタリアで仕事をする画家とははっきりと異なる。ぼくはイギリスの絵画によって、一度も行ったことのないイギリスの風土のほんの一部、ある側面をちらっと感知する。これも「絵を観る」ということだろう。
●アルフレッド・ウォリス展は、東京都庭園美術館で三月三十一日まで。三月十四日は休み。