国立新美術館で、エミリー・ウングワレー展

●六本木の国立新美術館で、エミリー・ウングワレー展。すごく良くて驚いた。砂漠が生んだ、アボリジニの天才画家、みたいなキャッチフレーズには胡散臭さしか感じられないのだが、実際の作品は、そんなこととはまったく関係なく素晴らしい。
ぼくには、点描による作品は、画家が生まれ育った環境によって強いられた「点描という作法」に囚われていて、やや息苦しいように感じられるのだが、つまり、中途半端にフォークアート的であり、中途半端にファインアート的であるように思うのだが(とはいえ、素晴らしい作品も何点かはあるのだが)、94年以降の、点描による拘束から脱して「線」を獲得した後の作品の、フォークアートだとかフアインアートとだとか、そのようなカテゴリーにはまったく把捉されることなく、画面との関係性の自由さをよりダイレクトに獲得したような作品は、観ていて思わず鼻息が粗くなってしまうほどに素晴らしいと思った。
これらの作品を、西洋美術史(近代絵画)とのシンクロや、あるいはそれとの距離によって評価しようとするのは、下らないことだ。この画家が、キャンバスにアクリル絵具というメディウムを使って「絵を描いた」のは晩年の八年くらいのことらしいのだが、あたりまえのことだが、人は同じことをやり続けると上手くなる。そして、上手くなるということは、そのメディウムの特性をより熟知し、その特性をより大きく、大胆に生かすことが出来るようになるということだ。この「上手くなる」ことに、西洋絵画も、非西洋絵画も関係はない。西洋だろうが非性西洋だろうが、絵は絵であり、つまり、たんに絵が上手くなったということのはずなのだ。たんに、キャンバスにアクリル絵具というメディウムの、自分自身にとってのより良い使い方を習得し、発明していったということに過ぎない。ある特定の道具が与えられた時、人はその道具のもつ潜在性のなかで仕事をする、ということだ。だから、この、西洋絵画の教養も教育もほとんどない画家の作品に、ある種のフォーマリスム絵画との共通性があったとしても、それは奇跡でもなければ、西洋的なものの抑圧でもない。たんに「絵を描く」ということはそういうことなのであり、「絵を描く」ことのなかにある普遍性の一端があらわれたということなのだ。
とはいえ、そもそもこの画家は、「キャンバスにアクリル絵具」で描くような人ではないはずではある。つまり、生涯ほとんど生まれた砂漠から出る事がなかったというこの人が、本来手にするはずのない、キャンバスやアクリル絵具を描画材料として用いたことのなかには、この画家に、そのような西洋的な「アートマーケット」で通用するようなフォーマットを与えることで(つまり、画家としてプロデュースすることで)、アートシーンで話題を呼び、アートマーケットで値段をつり上げることが可能な形式で作品をつくらせ、それを、「アボリジニ」というエコなブランドをも利用して持ち上げて、商売に利用しようとする、裏側にいる嫌らしい「仕掛人」の存在が嫌でも感じられてしまうことは事実なのだ。
さらに、とはいえ、これらの作品が、作品として素晴らしく面白いものであることもまた、間違いがないことだと思われる。キャンバスにアクリル絵具で絵を描くという行為それ自体のなかには、ほんの一かけらの否定的な側面もない。キャンバスという白い平面に、絵具ののった筆によって触れてゆく時の感触や体感、キャンバスの上に置かれる、色彩と色彩との関係や響き合いによって、自分自身が生きている環境や生の感触を抽象化して転写し、表現というあらたな次元を開くこと。キャンバスとアクリル絵具というメディウムがなければ決して可能ではなかった、描く身体と作品との関係というか、世界と身体と作品との接触点の生々しさを、とても鮮やかに浮かび上がらせていることは間違いがない。つまり、おそらくこの人ならば、どのような条件で、どのようなメディウムであっても、そのメディウムと、自分自身と、自分が生きる環境との、絶妙な接点を見いだして、非常に高度でユニークな作品をつくることが出来たのだと思われる。
個々の作品は大変に素晴らしく、しかし、それを持ち上げるアートという仕組みには、うんざりさせられる、という展覧会だった。(そのような、うんざりさせられるような仕組みのおかげで、このような素晴らしい作品が観られる、ということを、どう考えればよいのだろうか。それは、生まれつき運動神経の優れた貧しい国の生まれの若者が、アメリカへ渡って大リーガーになり、そのおかげで我々はその素晴らしいプレーを観ることが出来、若者はそれによって故郷の一族を経済的に支えることが出来る、というようなことなのだろうか。)