2024/02/14

⚫︎グリーンバーグモダニズムの絵画の特徴として「メディウムの不透明性」を挙げる。ここで言われているのは、モダニズムの絵画を観る時、そこに何が描かれているのかを観るより前に「それが絵画である」ことを観る、ということだ。以下、「クレメント・グリーンバーグの美術批評―「コンセプション」について」(鈴木真紀)より引用。

メディウムの不透明性とは何か。グリーンバーグは過去の巨匠の絵画作品とアバンギャルドのそれとを例にあげて説明している。「人は過去の巨匠の作品を一枚の絵画としてみる以前に、その中にあるものを見るが、一方モダニズムの絵画はまず最初に絵画としてみるのである」このくだりは『モダニズムの絵画』の一文だが、グリーンバーグモダニズム(グリーンバーグにとってモダニズムアバンギャルドは同義である)の絵画を、絵画に固有のメディウムの特性として用いている点に留意しなければならない。したがって「まず最初に絵画としてみる」というのは、絵画が平面性、二次元性であり、「物理的」であることを指す。グリーンバーグは、アバンギャルドの画家たちがメディウムの自律性の過程を通して、「絵画の物理的側面を発見したのである」と指摘する。》

メディウムの不透明性とは、絵画の「物理的側面」の発見であるとグリーンバーグは書く。しかし、ぼくはこの物理的な二次元性を(鈴木一平による議論を参照して)「知覚的な面」と「レイアウト的な面」とに分けて考えたい。知覚的な面とは、三次元空間の中で知覚されるキャンバスと絵の具という物体であり、それは決して完璧な平面ではあり得ない。対してレイアウト的な面は、三次元空間内の物体としての絵画から、脳内で補正されることで現れる(完璧に正面から見られた像としての)仮想的平面のことで、グリーンバーグの言う「メディウムの不透明性」とは、本来、レイアウト的な面のことだと考えた方がいいのではないかと思う。

さらに言えば、このレイアウト的な面ですら、厳密には二次元ではない。たとえば、平面的な彫刻としてのマティスの切り紙絵を考えるならば、貼られた紙には前後(上下)関係があるが、厳密に数学的な二次元には前後(上下)関係はあり得ない。そこから翻って、ごく普通の油絵であっても、キャンバスの上に絵の具がのっており、さらに、塗られた絵の具にも複数の層がある。その層の違いを目は感知するし、層の違いは(イリュージョンとしての)絵画空間にも影響する。故にレイアウト面は、三次元の三つの軸のうちの一つが極端に縮減されたものと考えられる。

だからここで、モダニズム絵画における「メディウムの不透明性」としての平面性とは、三次元の三つの軸のうちの一つが極端に縮減された仮想的なレイアウト面、と言い換えられる。

さらにグリーンバーグは、メディウムの不透明性=物理的側面こそがモダニズムの絵画の根拠であり本質であり、モダニズムの絵画はその本質以外のものをできる限り排除することで、純粋化し、メディウムとしての自律性を持つべきだとする。

モダニズムの芸術は各々の「メディウムの抵抗への前進的な投降」の歴史を発展させることで、各芸術の自律性を確立していく。「呈示され明らかにされなければならないことは、各々の個別な芸術において、独自のまた排除できない(irreducible)ようなものとは何か、ということであった。各々の芸術は、それ自身に固有のものである諸々の効果を限定しなければならなかった。(中略)各々の芸術の権能にとって独自のまた特有の領域とは、その芸術のメディウムの本性に独自のものと全て一致することがすぐに明らかになった。別の芸術のメディウムから借用されていると思わしき、または別の芸術のメディウムが借用していると思わしきどんな効果でも、ことごとく各々の芸術の諸効果から排除することが自己批判の仕事になった」。その結果、芸術は「純粋」になる。「純粋さ」とは自己批判を意味し、また諸芸術における自己批判の企てとは徹底的な自己限定のそれとなったのである。》

メディウムの不透明性」への着目までは納得できるが、その先のこの部分がグリーンバーグの怪しいところだと考えられる。なぜ、自己批判が、あるいは「メディウムの抵抗」が、純粋化、自己限定という形でなされなければならないのか(そうであっても良いが、そうでなくても良いはず)。ここには、カントの安易な流用があるように思われる(とはいえ、ラトゥールによれば、近代とは本来ハイブリッドであるはずのものを「純粋化する」という誤謬であるのだから、その意味で、グリーンバーグは正しく間違った、と言える)。これによって、戦後アメリカ型絵画は、モダニズムの絵画の持つ可能性を、すごく狭めて捉えることになってしまった。ルネサンス以降、マティスピカソまでの作品にあった様々な可能性を「見ない」ことになってしまった。

メディウムの不透明性」を意識することということから、「メディウムの純粋化(自己限定)」へとすすまなければならない理論的な必然性はない。クールベやマネ以降の絵画には明確に「メディウムの不透明性」への意識が感じられるが、それは必ずしも「メディウムの純粋化」を目指しているとは言えない。この点において、グーリーンバーグよりもコーリン・ロウとロバート・スラツキイによる「透明性―虚と実」の方が、モダニズムの芸術の特徴を的確に捉えていると考えられる。

「虚の透明性」とはいわば「不透明性による透明性」であり、それは絵画空間を「平面化」するというよりむしろ「多次元化」する。以下は、「透明性―虚と実」に引用されている、ジョージ・ケペシュ「視覚の言語」からの引用。

《二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性を想定しなければならない。像には透明性が附与されるのである。すなわち像は互いに視覚上の矛盾をきたすことなく相互に貫入することができるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。》

⚫︎不透明性による透明性とは、たとえば下のようなこと。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

⚫︎それとは別に、グリーンバーグは、芸術にとっての「内容」とは「質」のことであって「主題」のことではない、というとても重要なことを言っている。クレメント・グリーンバーグの美術批評―「コンセプション」について」(鈴木真紀)より引用。

グリーンバーグは芸術作品にとって重要なものが質であり、質は内容であると言う。宗教画や歴史画、あるいは芸術家の感情や社会などのイデオロギーは「主題」であって内容ではない。グリーンバーグがフォーマリストだとされる所以は、絵画にフォルムと色を含めた作品全体の形式から美的質を評価する姿勢にある。質は外的文脈とは無縁にあるがゆえに「曰く言いがたい」ものであるが、質は「効果」であるとも指摘する。さらに形式は質を可視化する手段であるとも言う。それゆえに形式と内容は分離できず、観者はただ作品の形式から眼にうつる感覚を得る。眼に映る美的経験からそれぞれの作品の効果の違いを述べることもできるのだ。》