●『四方対象』を読んで、ハーマンの主張が決して実在的対象の脱去を強調するものでなく、世界の四つの局面である四方対象同士のペアの10種類の組み合わせによって、その関係・間接的関係・無関係によって世界を説明するのが主眼であるとだ分かった上で、あらためてアート関係のテキスト「Art Without Relations」や「Greenberg, Duchamp, and the Next AvantGarde」を読み返すと面白い。
「Art Without Relations」(ArtReview)
https://artreview.com/features/september_2014_graham_harman_relations/
「Greenberg, Duchamp, and the Next Avant Garde」(PDF)
Greenberg, Duchamp, and the Next Avant Garde
●ハーマンはここで、グリーンバーグとか、フリードとかいって、モダニズムのいわばとても「古い」議論を持ち出している。今、アートにかかわっている人にとってはきっと化石のような議論だと思われるようなものを、わざわざ持ちだして、それを敷衍しながら、自らのオブジェクトにかんする議論につなげて展開していく。
(日本だと、おそらく「モダニズムのハードコア」を読んでいる世代でないと、何を問題にしているのか分からないのではないか。)
ポストモダン以降の現時点では、これらが問題であった頃とアートワールドがまったく異なった様相の世界になっていて、(デュシャンはともかくとしても)グリーンバーグやフリードの言説から「使える」ところを取り出して組み替えるようなテキストが、(アカデミックな美術史研究とかでない限り)アートの文脈に対するなにがしかの影響力をもったり、文脈に対する介入になったりするとはあまり思えないのだけど、なぜ、わざわざグリーンバーグで、しかも「次のアバンギャルド」(いまどき「アバンギャルド」って…)というタイトルはどうよ……、という感じが、まずある。
エリー・デューリングだったら、「プロトタイプ」とか言って新しい概念を出しつつ、パナマレンコとかイマドキっぽいアーティストを出してきたりするのに、ハーマンは「グリーンバーグカンディンスキーを認めなかった」みたいな、「え、だから?」みたいな古い話を今更もち出す。この何ともズレている感じのハーマンのキャラがぼくはとても好きだ。
(しかしハーマンのアートへの議論がたんに懐古的なものでないことは『四方対象』を読めば分かる。ここでハーマンは、グリーンバーグに---『四方対象』における---ハイデガーと似たような役割を与えている。ハーマンは意図的に---挑発的に---ここ、三、四十年くらいのポストモダン的議論を隘路としてしれっと無視してすっ飛ばしているのかもしれない。)
グリーンバーグカンディンスキーを「地方性」のアーティスト(都市の先端の動向---キュビズム---にある程度敏感ではあったけど、それに完全にはついて行き切れていない、理解が中途半端、という意味)だと言って軽くみるけど、地方性と言っても偉大な「地方性」の画家の例が、セザンヌという大きな存在がいるではないか、みたいなことを言う。「Next Avant Garde」とか言って、締めが(次のアバンギャルドのあるべき像が)セザンヌとかって、それはアリなのか、と。
ぼくにとってセザンヌは神だし、近代絵画大好きなので、「キタコレ!」的な感じが強くあるけど、今のアートの人たち、この話題に興味あるの?、と思ってしまうのだけど。
下の引用、すごく同意で、今、これをさらっと言える人が出てきたことが単純にうれしい。しかし、今の欧米圏でのイケてるアートピープルたちが、今更、グリーンバーグが…、フリードが…、セザンヌが…、みたいな話で本気で盛り上がるとはとても思えない。ハーマンの言説は「現代アート」の世界(現在の文脈)とは相容れないように感じてしまうのだが。「セザンヌみたいに---古くて新しい---混乱した作品をつくれ」って言っているわけだから。
《(…)セザンヌやあるいはカントのようにある時代の新しい原理を発見するために、何が新しいのかという問いを捨て去ることなく、労を惜しまずに古くなってしまったものを別の仕方でよみがえらせることであり、ゆっくりともがき続けなければならない。そしておそらく、次の世代の人々が、彼らが気に入る仕方で、結ぶことが出来る十数もの緩い糸を見せびらかさねばならないのだ。(…)この時代が犠牲し、後世に残す、過去において最も価値のあるものは何だろうか? 次の時代のセザンヌとして現れる古臭い地方性のものはなにだろうか?》(「Greenberg, Duchamp, and the Next AvantGarde」上妻世海・訳)
《[フリードの否定する]リテラルの呼び名は「関係性」である。なぜなら、両者はモノの諸効果を可能にする隠れた内側のリアリティよりも、モノの外側の諸効果に言及するからだ。同様に、[フリードの否定する]演劇的の別の名前は「非-関係性」である。何故なら、劇場とは観察のための場所ではなく、むしろ、同情や恐怖、演技の為の場所だからだ。その場所で、私達は、描かれている何かを観察するのではない。そうでなく、イラストレーターとしてよりもむしろ、役者としての意味において、ミメーシス(感染)を通じて、描かれたものになるのだ。このエッセイは二つの基本的な主張をしている。一つ目は、ハイデガーグリーンバーグは芸術の表面的な内容を超えた深みを求めたという点で正しかったが、その深みを、単一的で全体論的な背景と同一視した点において誤っているというものだ。モダニストの理論における問題は、芸術を脱文脈化し、自律的に扱いすぎるという点にあるのではない。むしろ、その問題は、内容それ自体の内的な魅惑よりもむしろ、メディウムの特性の中に自律性を見出した点にあるのだ。》(「Art Without Relations」上妻世海・訳、[ ]内はぼくが付け足した)