●ハーマンを読んでいる時に想起されるのが内部観測だ。もちろん、内部観測が「ハーマン的対象」として認めるのは生物有機体のみなのだし、相容れないところも多々あるのだが。
ハーマンが、「対象」とは、上方解体によっても下方解体によっても還元されない、自律し、一定の持続した同一性を保つものだと定義するとき、その「対象」の同一性(持続性)を保証するのは、あらゆる関係から脱去する、実在的対象としての「対象それ自身」でしかない。内部観測における生命有機体もまた、外部を取り込み排出することで変化をしつづけながらも、自分という「クラス同一性(抽象性)」を、周囲の環境から「自分」という一つの記号として抽象化するものは、その物体(自分)そのものでしかありえないとする。以下の引用は「内部観測 The Origin」(松野孝一郎×上浦基)における、松野発言。
http://eureka-project.jp/2014/06/20/hello-world/
《われわれが可能とする記号操作にあたって、記号が相手とすることのできる経験対象はあくまでクラス、類であって、個ではありません。これは決して、経験世界に可能なのはクラス、類に限られる、といっている訳ではありません。それをクラス、類に限っているのは、あくまで記号を操るわれわれです。》
《クラスに着眼すれば、不変な同一性が確保されていながら、個に着目すれば、絶えざる変化運動が付随することになります。それを端的に示す経験事実が生物有機体です。ですから、生物有機体の出現は、演繹論理からの帰結ではありえなく、あくまでも、個の絶えざる交代を介して不変なクラス同一性を可能すとする経験事実に立脚してのことです。》
《クラスの不変性強調は、生物有機体にあらざる素粒子に関心を寄せる物理学者にも共通しています。ヒッグス粒子がそうであるように、新しい素粒子の発見に欠かせないのは、その素粒子が伴うクラス同一性の確定です。その確定に必須なのが、同じクラス同一性を伴うとされる個々の素粒子の同一性です。それは個としての素粒子が伴う持続する同一性です。それを保証するのが、ガリレイの慣性です。(…)お目当ての素粒子からその慣性を抽象するのは、スイス、ジュネーブ近郊のCERNや、シカゴ郊外のFermi-Lab(国立加速器研究所)などで建設された大型加速器の助けによって補強されてきた素粒子物理学者です。》
《しかし、持続する同一性を保証する経験事実は、ガリレイの慣性に限られている訳ではありません。個の絶えざる交代を介して、持続する物体、持続するクラス同一性を伴う物体を保証する道が経験世界には温存されています。それを実践する事例が、経験世界のうちに出現した生物有機体です。ここにおいて、物理と生物の違いが鮮明になります。物理において個から持続するクラス同一性としての慣性を抽象するのは物理学者ですが、生物にあって持続するクラス同一性を抽象するのは生物学者ではありません。物体そのものです。》
ヒッグス粒子を、この世界から記号として取り出す(記号接地し記号操作する)のは、外部観測者としての物理学者だが、生物有機体においては、自分自身を、環境から記号(抽象)として取り出して、「自分」として維持するのは、内部観測者としての「その物体(対象)そのもの」である、と。
●生物としてここで話題になっているのが「大腸菌」なのでちょっと個と類との関係が微妙なのだけど、ここでいわれる「クラス同一性」は、個に対する類というより、新陳代謝などにより物質的には常に変化しながらも(個の絶えざる交代)、抽象として「この個(ハーマン的な対象)」であることが持続していること(クラス同一性を抽象する)、という風に読むべきだろうと思う。
《物体そのものが抽象を行う、というのは、一見したところ、奇異な言い分に聞こえますが、それは見かけ上のことでしかありません。個の絶えざる交代によって維持される物体において、持続するクラス同一性を保証する時間は、個に持続するクラス同一性を保証する時間とは明らかに異なります。この違いが、物理では想定されなかった、物体そのものが遂行する抽象を可能といたします。物理での慣性を保証する時間はニュートン、カントが想定する時間です。他に依存することなく、一様、均質に流れる時間がそれです。それに引き換え、個の交代によって物体が抽象可能とするクラス同一性を保証する時間は、絶えず流れ去る時間か常に在る、とする時間です。》
《流れ去る時間が常に在る、との言明を有意味な言明であると捉えるかぎり、それは流れ去る対象が常に在る対象から識別され、しかもその二つから有意義な総合体としての時間が綜合されることを要請しています。確かに、個の交代は絶えず流れ去る時間現象でありながら、それによって維持される物体のクラス同一性は常に在る時間現象を参照しています。より具体的に言い換えるならば、流れ去る個を可能とする基体が常に在る、となります。このとき、流れ去る、を因果関係でとらえるならば、その因果は併せて、常に在る、を予期することも含むことになります。》
●おそらく上記のようなことはハーマンも、まったく違う語彙で考えていると思う。オブジェクト指向存在論を、ただ、「対象」のあらゆる関係からの脱去ばかりを強調して捉えるのは矮小化だと思う。
(ハーマンや、あるいはパースのように、汎記号論、汎思考論---つまり汎心論、多心論---を考える時、この「内部観測者とそれ以外の違い」をどう扱うのか---生命だけが内部観測者なのか---が問題となるように思う。)