●昨日の日記で引用した塩谷賢の講義で、ルーマンによる「システム」という語のもっとも緩い定義が示されていた。
《システムは差し当たって形式的に述べるなら、それは同一性である。複雑で、変動する環境のなかで、内と外の差異を安定化させることにより自己を維持しようとする同一性である。》
しかしこの時、その同一性を「誰が見ているのか(誰がその同一性を認めるのか)」というのが問題になる。(1)システム自身が自意識をもっていれば、わたしの同一性をわたしが感じていることになるが、その場合はシステムが少なくとも生物である必要がある。(2)その同一性をシステムの外から見ている場合、生物学者が生物を、社会学者が社会を、経営コンサルタントが企業を、技術者が機械の作動を、それぞれ見ているということになる。その時もまた、生物学者社会学者もコンサルタントも技術者も生物である。あるいは、(3)そのシステムの内部にいる(システムの一部である)が、システムそのものではない誰か(官庁で働く一公務員や群れのなかの一羽の鳥)が見ていることもある。ここでもまた、見ているのは生物である。
だとすれば、システムとは、生物が、自分に似た何かを自分以外のなにものか(時にはもう一人の自分自身も含む)のなかに発見することによってそう名指されることになる。同一性とは、別の同一性によって「同一性がある」と発見されることにより、そう呼ばれる。
わたしが、自分自身の同一性を感じる時、同一性を感じている観測者としてのわたしと、観測される対象としてのわたしとに分かれつつ、さらにそれが同一のものとして重ね合わせられている。この重ね合わせが、ぴったりとではなくズレが大きくなってゆくと、システムの一部がシステム全体を見ている(一公務員であるわたしが官庁の官僚的体質を嘆く、というような)という風になる。あるいは、わたしが、わたしの歯が痛いことを嘆く、という時にそれは逆転して、システム全体としてのわたしが下位システムを見ていることになる。
生物と社会システムのようなものとを同一視することに対しては、それが一種の全体主義につながるという批判も(おそらく根強く)あり得る。しかし、ルーマンによる定義を受け入れてシステムの根拠を同一性にみるとすれば、システムという概念そのものが、生物(あるいは人間)とのアナロジー抜きには成り立たなくなるのではないか(西垣通も、「情報」という概念は観測者である「生物」がいなければ意味をもたないと書いていた)。システムは、何かしらの観測者によってシステムとして発見されることなしにはそう名指されない。
もう一つ、どこまでがそのシステムなのかという範囲の問題もある。どこまでがシステムで、どこから先が環境であるのか。わたしが食べたものはどこから(胃、腸、血管…)わたしの一部となるのか、腸内の微生物はわたしなのか環境なのか、あるいは、わたしの唾液や抜けた髪の毛はわたしなのか。もっと言えば、「わたしの地元」や「わたしの国」はどの程度わたしなのか。
河本英夫によれば、オートポイエーシスシステムは完全に閉じていて、入力も出力もなく、ただ自分を産出しつづけるだけで、つまり「範囲(境界)」という概念がないのだということになる。ほとんどモナドジーみたいになるけど、そこまで言い切ってしまうとさすがにいろいろやりづらくなる(例えば、システムの変化をどう記述すればよいか、システムを外から見るにはどうしたらよいか、が、わからなくなる)。それだと、システムはただ、作動し、行為し、形成する何かだということになり、「見る(認識する)」という側面を捉えられない(河本英夫は確か、意識は行為を「抑制する」時にのみ働く、ということを書いていた)。それに対し、「見る」ことと「行為する」こととの分離(矛盾)とその乗り越えこそが生命システム(原生計算)であるという捉え方をする内部観測とか、あるいは西田のように媒介について考えるとかが必要になるのだと思う。
●以下、昨日と同じ塩谷賢の講義録より引用。
《オートポイエシスの話を、河本さんの場合は細胞の話から始めます。マトゥーラとヴァレラの場合は脳だったから記憶の問題があるんですけれども。細胞だからプロセスとものになってしまうわけですね。プリコジンの散逸構造ではものはプロセスの副産物だったんです。そうではなくてものがプロセスをうまい具合に活性化させるというタイプで一般化したのがオートポイエシスです。けれど実はルーマンの言葉では、内外の差異を安定化させるという言葉で書いてある部分は、どうやって安定させるかに関してはわからないわけですが――静的か動的かもわからないわけですから――そこでは人間が考えられている。人間を考えているということで意味というシステムを利用することができた。マトゥーラとヴァレラは、脳を考えていたから記憶を用意することができた。河本さんも生物というところで物質を使います。これらはすべてある意味で内容です。先程いったように、受け渡すことができる、移動させることができる、結合を作ることができるなにものかである。見るということを考えるときに、なぜ内容が大事なのか、という問いかけにつながります。内容というものは、言い換えるとすれば資源なんですよ。内容とは資源を貯めることなんです。記憶は典型的な情報資源ですよね。これらは僕の解釈ですけど、哲学において、見るということと、知識を蓄えるということ、これらは二つとも資源に関することなんです。それではなにに対する資源なのでしょうか。ギリシャにおける運命に対する資源なんですよ。行為とは資源を使う場面なんです。認識は資源を貯める場面なんです。当然、資源を貯めること自身も行為ですから、入れ子構造になっているわけです。でも資源という概念を使って見るということ考えることが重要なんです。》