●もしトノ―二らによる統合情報理論が正しいとするのなら、並立分散的な心のモデルを考える、いわゆる「心のモジュール仮説」(ミンスキーやデネット、パトナムなど)は、けっこう苦しい立場になるのではないか。それは、小脳的なモデルではあっても、視床-皮質系的なモデルとは言えないことになる(多様性のみが問題とされ、統合性が抜けている、つまり、ある一部分への刺激が別の多くの要素へも波及し、各要素が相互作用する、という側面が拾えていない)。そして、小脳には意識は宿らない(少なくとも、小脳を切除しても意識は残る)。
●以下、『意識はいつ生まれるのか』(マルチェロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ)より引用。
《われわれが「暗い」と思うとき、誰もが皆、そこにある「闇」を見ているのだと考える。「闇」という独自のものが、すでにそれだけで存在しているのだと考えている。だが、まったく違う! 「暗い」と思ったり、想像したり、夢に見たりするとき、「闇ではないものすべて」との関連で「暗い」と感じるのだ。「闇ではなく、ほかのものでありえたかもしれない」ものの選択肢がそろってはじめて、全視床-皮質系挙げての無数の選択肢があってはじめて、「闇」なのだ。》
《(「暗い」という状態を感じるとき)網膜と接続した皮質ニューロンのうち、「暗さ」の刺激に反応するものだけが活動をはじめる、ということだ。さらには、光に反応する皮質ニューロンや、色に反応するニューロン、三次元の物体に反応するニューロンが反応していない、ということでもある。(…)なにかほかのことを考えたりしたときに活動をはじめるニューロンも「オフ」になっているということだ。》
《この果てしない織物において、おとなしいニューロンは活発なニューロンと同じくらい重要である。大オーケストラが交響曲を演奏する際、休符は音符と同じくらい重要である。》
●つまり、われわれが「暗い」と感じる時、「暗さ」を感じるニューロンのモジュールが単独で反応しているだけでなく、それ以外の状態を感じるニューロンがそれと相互作用して抑制されていなければならない。それは、並立分散的なネットワークでは可能ではない。統合されているというのはそういう意味で、「暗さ」モジュールだけの反応ではなく、視床-皮質系全体の「フォーメーション」によって「闇」を感じていて、それが「意識」されるということだ、と。「闇」という一つの状態の感覚は、その背後にある無数の「あり得たがそうでなかった」諸感覚との共働によって成立している。
視床-皮質系は、すべての要素が同じように大切であり、はるかな可能性を秘めている特別な場所なのだ。ゆえに、小脳とは完全にかけ離れた存在だ。いや、小脳だけでなく、これまでに存在が知られているあらゆる物体と、まったく性質を異にしているかもしれない。》
視床-皮質系が全体として「一つ」のものとして機能しているという点の強調は、主体の「一である」いう刻印を強調する精神分析との親和性が高いように思われる。さらに、「闇」が「闇以外の可能性」の抑制によって成り立っているという考えは、シニフィアンの連鎖という概念との親和性も高い。しかし、それがシニフィアン抜きで、ニューロンのネットワークのフォーメーションによって成り立っているという点は大きく異なるのではないか。通常、想像的なもの(イメージ)には「否定」がないと考えられているが、「あるイメージ」そのものが既に多数の否定(抑制)を含んで成立していることになるのではないか。いや、イメージ以前の、クオリアそのものが、ある種の否定(多様な潜在性の抑制)を介して成立していることになる。
●「意識」とか「心身問題」とかいう言い方をすると、それを「偽の問題」として退けることが可能であるように思われるかもしれないが(「意識」など定義できない曖昧な概念で、様々な認知機能に分解することで解消できる、など)、でも「観測(者)の問題」と考えるならば、この世界について考える時、それを退けることはできなくなるのではないか。
とはいえ、トノーニが正しいとすれば、意識は高等な動物にしかないことになる。一方、内部観測という観点で考えれば、大腸菌もまた、内部観測者である。それは、自己同一性を自ら作りだし、記号処理だけでなく、記号接地(つまりこの世界のなかから新たな記号を発見=創造する)を行う。
(人工知能におけるディープラーニングは、記号処理ではなく記号接地であり得るのか、という問題も出てくる。)
情報統合理論を正しいとするのなら、観測者=意識をもつ者、とはならない。意識を持つ者ならば観測者であろうが、観測者であれば意識をもつ、とは言えない。しかそこには何らかの連続性があるように思われる。
内部観測者は、刻々と変化する(何かを取り入れ、排出し、増殖する)自分自身(流動する多としての自己)に、「持続する(類的)自己」としての同一性を与える。そしてその「(類的)自己の同一性」において、対象に対しても同一性を付与する。大腸菌は(自身が大腸菌であるという同一性に基づき)エサとしてブドウ糖を、世界の中から選り分け、取りいれる。世界のなかに散らばる、それぞれ個別の「これ」や「あれ」や「それ」に、ブドウ糖という類的同一性を見出し、与える。ブドウ糖に同一性を与えるのはそれを摂取する(類的同一性としての)大腸菌であって、ブドウ糖自身ではない。故にブドウ糖は、内部観測者ではない。
内部観測者は、自分自身に対して自分で同一性を与え、その自分自身の同一性において、対象(これ、あれ、それ)に同一性(ブドウ糖)を与える。内部観測者がなければ、この世界に多はあっても一(統合)はないのではないか。
このような、自他どちらに対しても「一」を与える作用こそが、意識とか心とか、あるいは魂とか呼ばれるものの、最も基本的な働きではないだろうか。
●内部観測や記号接地について(過去の「偽日記」より)
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20140628
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20140629
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20140706