●『ガッチャマンクラウズ インサイト』第10話。なるほど、「インサイト」では理詰夢が「炎上キャラ」だったのか、と。理詰夢は、理知的に炎上を仕掛け、狙った方向に向けて空気を操作し、空気に相転移を起こさせる。丈が必ず失敗するキャラであるのに対し、理詰夢は狙いを的確に成功させるキャラだ。それは理詰夢が丈よりも「人々」を突き放して見ていて、「サル」の生態を熟知しているからだろう。
空気とは従来、狭い範囲でのみ作用するものだろう。学校のクラスとか、閉ざされた狭い地域とか。関係の範囲が広がると、空気は拡散して薄くなる。「サル山の政治」は、その「サル山」でしか意味がない。だから、空気を濃いままで広く拡散させるためには、捨てられたタバコの吸い殻を大規模な山火事にまで広げるような、人為とそのための装置が必要になる。太平洋戦争の原因が「空気」であるかのようなゆる爺の言葉をそのまま肯定することはできないとしても、少なくともそれを肯定する「空気」の拡散を可能にした、近代的なネイション-ステイトという装置(明治以降の「日本」の均質化)や、新聞やラジオといったマスメディアという装置があったから、空気の拡散が可能になったとは言えるだろう。だが、教育や公安、メディア操作を通じて「空気」の拡散を画策できたのはごく限られた権力者のみであろう。しかし、現在の爆発的な情報技術の発達は、その条件を変える。
理詰夢の策略はおそらく、社会工学的なものであるから成功した。個々人ではそれぞれ複雑であるはずの人々も、「ひとかたまり」としての行動はかなりの程度で予測可能であり、誘導可能である。たとえば、人々を誘導するミリオの扇動家ぶりは、芸人としての生き残り競争のなかで無意識に身につけたものであろう。あるいは、ゲルサドラのビッグデータ解析もまた、宇宙人である彼がもともと持っている能力であろう。それはどちらも直感的なものであり、「思想」に基づかないし、自分で意識的に制御しきれない。つまりきわめて不安定であり、危険なものだ。しかし理詰夢の策略、誘導は、社会の分析、解析を通じて理知的に導かれたもので、そして「思想」を通じて実現されたものであるはずだ。
理詰夢の「敵」は、ミリオやゲルサドラのような、直感に基づく(感情に訴える)「多」の制御、誘導であり、それは「ボスザル」と呼ばれる。ここには一つの明確な思想がある。おそらく「炎上」というものは、(リアルな世界においても)ネットそのものがなくならない限り今後もなくなることはないであろう。それに対して、個々人に倫理や道徳やリテラシーを要求するだけではどうしようもない。だから、どうしたって起きてしまう炎上を最小限の規模に留め、それによって傷つく人の数や傷の度合いをも最小限のものとするための工学的な知が要請される。あるいは、過剰な接続によって起こる強い相互監視=空気の息苦しさを解消する、実践的な方法はどこにあるのか、などの要請も。社会工学的に見いだされる「多」と、その制御。理詰夢の考える「平和」はこのような理性的でトップダウン的な制御に基づいて実現される(エリート主義)。だが、そのようにして見いだされる「多」は、どうしても「サル」という表象であらざるをえない。
「クラウズ」も「インサイト」も「多」をめぐる物語だと言える。情報技術の発達によって、今まで(近代)とは別様に現れた「多」をどのように表象し、それについてどのように考えるのか、と(パノプティコン的なディシプリンでは制御できない)。過剰な接続によって強く空気にからめ取られつつも、根をもたずに過剰に流動的である「多」。それは「わたし自身」であると同時に、わたしにとって未知の他であり、大きな恐怖と抑圧でもある。だがそこに、新たな可能性を見出そうとしているのがルイ(+X)であろう。「クラウズ」の終盤が、カッツェによる「破壊(炎上)」と、ルイによる「多の可能性」との闘いであったのと同様に、「インサイト」のクライマックスもまた、理詰夢による「多の制御」と、ルイによる「多の可能性」との闘いという様相になってきたようにみえる。だがこの二人は多くの共通点をもち、決して排他的であるわけではない。むしろ相補的である。
とはいえ、ここまで散々、「空気」の恐ろしさをリアルに描いてきた「インサイト」が、最後にどのような形で「多の可能性」を示すことができるのか。
●「インサイト」には、ルイ=多の可能性と、理詰夢=多の工学的制御という対立軸が一つある。それともう一つ、はじめ=熟考と、つばさ=直情的行動という対立軸もある。実際、はじめは、物語がはじまってから今までずっと一貫して、ただ考えつづけ、「考えろ」と言い続けることしかしていない。それは、多の可能性とも多の制御とも異なる、「個」に対するメッセージだと言える。物語序盤のキリキリするような不穏な対立の空気のなかでも、中盤以降の、危険な「一つになる」空気のなかでも、一貫して考え、そして個に向けて「考えろ」とだけ言い続ける。はじめ自身は、どのような思想も表明せずに、あらゆる異なる思想と等距離にあり、距離をとりつつも断絶はしない。どこにも所属しないが、関係を断ち切る(孤立する)こともなく、誰かが孤立しようとする時、関係を途切れさせてしまわないような配慮をみせる(彼女がそのようなポジションでいられるのは、ガッチャマンというチームがそれを許容する場であるからだが)。みんながそれぞれで考えろ、ただ孤立はするな、というメッセージをあらゆる個に対して発している。
理詰夢とルイとが、対立しつつも排他的ではないように、はじめとつばさも、対立しつつも排他的ではない。理詰夢とルイが合流し、はじめとつばさが合流した時に、何かが起こるのではないかということに期待したい。
●「インサイト」は、誰が敵だとか、悪を倒せとかいう話ではない。「クラウズ」にもその傾向はあったけど、とにかくベルク・カッツェという敵はいた。しかし「インサイト」には、敵も悪もどこにもいない。誰が悪いのかではなく、ある環境のなかに、ある存在が現れた時、その相互作用で困ったことが起きてしまう。どうしてこんなことになってしまうのか、どこが問題で、それに対してどうすることが有効なのか、という話であると思う。だからこの作品は、一種の「鏡」ではあっても、特定に何かに対する風刺や批判ではないと思う。