●『ガッチャマンクラウズ インサイト』第8話。主題的には、前半の不穏な複雑さからすると、ちょっと単純な方向に流れ過ぎているようにも思うけど、それでも、ゆるキャラ=ポジティブなゾンビみたいな奴が大量に発生するという展開は、イメージとして、表現として、こういうやり方もあるのかと驚いた。最近のアニメは、物語の展開の定型とかルーティーンみたいなものを外した展開をどんどん仕掛けてくるので、まるで先が読めない(終盤にクライマックスと収束があるというお約束は外さないとしても、中盤の展開の多様さはすごい)。いわゆる同調圧力的なものに対する恐怖の表現としては「ユリ熊」よりもすごいかもしれない。
で、問題は、こんな状況に対してガッチャマンたちに何かできることがあるのか、という点だろう。「クラウズ」一期では、選ばれた百人の精鋭が上手く機能しなくて、それに対して三万人の匿名の悪意が、世界の壊滅に対してすごく有効に機能してしまうという事態が起こった。それに対処する方法として、ルイがすべての人に対してクラウズを開放するという策をとる。つまり、三万人の悪意に対して、善意も悪意も無関心も含まれた一億人をぶつけるというやり方だ。すごく大雑把にいえば、一億人もいれば、全体として悪意も善意も相殺されて、最悪の事態はなんとか納まるだろうということだと言える。サンプル数が多いと差分は打ち消し合って平均化する。一般意思としての集合知は、常識から大きくは外れない、ということだろう。
しかし、「インサイド」のポジティブ・ゾンビたちは、おそらく国民と同じ数だけ発生している。少なくとも、「一つになりたい」と願っている人と同じ数は存在するだろう。あるいは、「サドラにおまかせ」と投票する、国民の七割強くらいの数はいると思われる。なので、極端な指向性をもつ「純粋な悪意」の三万人に対し、全体としては特定の色をもたない一億人をぶつけるというやり方は通用しない。全体(一般意思)に対して「特定の色」へと誘導するのがゲルサドラという存在であるのだから。
これに対して、一体どのような対処法があるのだろうか。『ユリ熊嵐』は、世界は救われないが、個は救われるという話だった。しかし「インサイト」は初めから社会の話なので、例えば、はじめとつばさだけが救われるというかたちでの収束は考えられない。
集合知は、個が充分に多様であるという条件がなければ成り立たない。その条件である個の多様性がなくなった時に、ではどうすればよいのか。おそらくこれが、「クラウズ」への批判でもある「インサイト」の思想的な主題であるように思われる。これに対し、エリート主義や啓蒙は、おそらく通用しない。無数のポジティブ・ゾンビたちにどのようにすれば対抗が可能なのか。現時点でぼくには、ガッチャマン側の打つ手を予測することができない。
(物語的な水準で言えば、つばさがラスボスであることはほぼ間違いないと思う。つばさに何かしらの変化が起こることで、一種の成長物語として、物語は収束するのだろう。しかしそれが「どのような形のものなのか」ということが重要だろう。つばさが改心し、ゲルサドラを説得して収束、とかいう形では、物語としては納まるとしても、思想として、提出された問題に答えたことにならない。)
(だがその前に、この物語では未だ「眠り姫」の状態にある、清音と理詰夢とがどのように動き、ルイがどのように「回復する」のかという問題もある。または、目の前で友人をポジティブ・ゾンビに食われた丈が、また間違った方向へ暴走するという展開も考えられる。このシリーズで丈は、常に間違った判断をする人という役割をもっているようだし。)