●お知らせ。けいそうビブリオフィルに連載している「虚構世界はなぜ必要か?」の第16回、「社会を変える」というフィクション/『逆襲のシャア』『ガンダムUCユニコーン)』『ガッチャマンクラウズ』(2)が公開されています。
http://keisobiblio.com/2017/03/01/furuya16/
以下、本文から部分的に抜き出して引用します。
《つまり、ニュータイプとは新しい世代のことだと考えていいかもしれません。フル・フロンタルは、経験も実力もビジョンも、あらゆる点でバナージとミネバよりも優れています。しかしそれは、現状においてそうだ、ということです。フル・フロンタルは、シャアの再来であり、シャアのシミュレーションである、シャアから継続する何者かです。つまり彼は、既に現状を形作るもの、体制を形作るものの一部であると言えます。彼は既得権をもつ者であり、そうである限り体制内革命家であるしかないでしょう。現状を知り尽くしているからこそ、そうであるしかないのです。しかし、バナージとミネバは、未だ何者でもありません。バナージは、自らの意思ではなく状況に巻込まれた、未だに状況さえ充分には呑み込めていない者です。しかしそれは、状況の側からみても、彼が状況にどのような影響を与えるのか未知数である何かだということを意味します。新参者であるからこそ、状況に加えられた新しいピースであるからこそ、状況を変える新しい何かであり得るということです。》
《本質的に「新しい」ものの新しさは、それが生まれた時には理解されないでしょう。その新しさが本当に新しいものだとすると、わたしたちが既に知っている新しさとは似ていないはずなので、それの何がどう新しいのかなかなか気づけないからです。この連載の第3回に書きましたが、インターネットの研究は当初あまり注目されない地味なものだったそうです。専門家でさえ多くが「これからはファックスの時代だ。コンピュータネットワークなんかもう古い」「貴重なコンピュータを、たかがおしゃべりのために使うのは馬鹿げている」という意見だったといいます。インターネットの新しさは、新しすぎて理解されなかったのです。》
《ヒーローというのは通常、悪を倒すことで秩序を回復する存在で、社会を変革する存在ではありません。むしろ、社会の変革を目指す者と敵対する可能性の方が高いでしょう。では、またもやここにも体制内アウトローが登場するのでしょうか。しかし、ガッチャマンアウトローではなく、ベタに(どちらかというとあまり有能ではない)官僚的な組織として描かれます。》
《クラウズは、ガンダムがそうであったのと同様に、それ自体では良いものでも悪いものでもありません。ただ、それを使う人の能動性を増加させるものです。『ガッチャマン クラウズ』は、ガンダムから希少性を剥奪するのです。すべての人に無条件でクラウズの使用を許可するということは、誰でもがガッチャマンにもなれるし、ベルク・カッツェにもなれるということです。もちろん、何もしないことも可能です。そして、クラウズのスペックはどれも等しいので、すべての人に等しい能動性が与えられるということになります。体が弱かろうと、どこに住んでいようと、何歳であろうと、関係ありません。匿名的な装置なので、浮世のしがらみからも自由です。》
《選ばれた誰かではなく、すべての人の能動性を等しく増強することで、破壊は抑制され、悪意は相殺され、混乱は収束する。このような筋立てや終幕はあまりに楽天的すぎるし、性善説に傾きすぎているのかもしれません(実際、『ガッチャマン クラウズ』にはツッコミどころが多く存在するでしょう)。しかし、立川の混乱のなかで思想家であるはじめは言います。「もう、ぼくらだけじゃどうしようもないっすよ」、と。群れとして起こる祭りや、群れとして起こる破壊の連鎖に抗することができるのは、特別な力をもったヒーロー(リーダー)ではなく、群れのなかから生じるそれとは別の力しかないのではないか、ということです。だからもう「みんな」に預けるしかない。クラウズは、固定化された関係性や一部に集中する権力をいったんキャンセルして、能動力を等しく分配し直す装置と言えます。》
《(これは、事前にいくつかの選択肢や理念や立場があった上での「投票」や「多数決」「動員争い」のような、従来からある単純に加算的なシステムではありません。バナージが、地球対ジオンという既成の構図から「別のゲーム」を引き出したように、それぞれの個が実践する能動力たちが、どのように相互作用を起こし、組み合わせられたり分岐したり、共鳴を起こしたり反発を生んだり、伝播したりしなかったりするのかという過程や、そのなかからどんなものが生まれてくるのかは、単純な計算のようには予測可能なことではないでしょう。)》