●ちょっと思うところがあって『ガンダムUC』のエピソード7(最終話)を観直していた。ぼくはどうしてもここで、「バナージが悪い女(ミネバ)に騙されている」みたいな感じをもってしまう。バナージとミネバが組むよりも、バナージとフル・フロンタルが組む方がずっと多くの人を幸福にするように思えてしまう。この感覚は一体どこからくるのだろうか。
自身は空虚であり、万人の器であるというフル・フロンタルは、いわば理想化された政治家であり、最大多数の最大幸福を計算して、それに向けて行動する人工知能のような存在であろう。対してバナージは、幸福の最大化(不幸の最小化)には解消できないもの、希望(可能性)、正義、理想、進歩のようなものを「信じたい」と思っている。
フル・フロンタルの思想と行動の根拠には、時間の果てとしての空無があることがエピソード7では描かれている。宇宙の最終到達点には時間すら存在しない無があり、彼にはそれが見える。宇宙の発展の結果が(崇高で唯一の、あるいは多様で無数のユニークな、「宇宙意志」のようなものに辿り着くのではなくて)ただの「無」であるならば、そこに到達する過程にいる我々には、手に入る限りでの快楽と、できる限り少ない苦痛と悲しみだけがあればいい。希望や理想は人にとっての疑似餌であり、人にはそのようなものがアドホックには必要だとしても、それがあまりに酷い殺し合いや苦痛を起こさせるのだとすれば、そうならないような技術的操作を行えばいい。フル・フロンタルにとっての正義は超越的なものではなく、理念よりも操作の方が上位にあり、正義は不幸の最小化に向けた計算と、その実現のための技術的操作や戦略的行動以外のものではない。
(フル・フロンタルは「大審問官」である。)
もし、それを超える正義があると主張したいのならば、神、精神、あるいは真理や宇宙意志のような、高次元にある崇高な価値を設定し、そこへ向けた漸進的な進歩や多様な展開という過程を信じる必要がある。今ここにある、この苦しみ、この悲しみ、この理不尽な犠牲は、高次な存在に近づくために避けられない過程である、ということによって肯定される。この作品ではそれは、ニュータイプという思想によって担われていると言える。ニュータイプが希望であるということの意味は、ニュータイプという存在によって、我々が高次存在に向けて一歩ずつでも前進しているということの証がたてられるからだろう。それによって「(一歩でも先に進んだ)次の世代に託す」こと、自分が死んでゆくことも肯定できる。
ただ、キリストが大審問官を簡単には否定できないように、バナージもまた、フル・フロンタルを簡単には否定できないはずなのだ。キリスト対大審問官という問題に、人類はまだ明確な答えを出せてはいない、と思う。しかしミネバは、いとも簡単にフル・フロンタルを否定する(ミネバがフル・フロンタルの構想を否定するのはエピソード6だけど)。フル・フロンタルを無条件に肯定することはできない(彼に失望する)のはいいとしても、彼の提案は実効性のある、周到に考え抜かれたものであり、既に大勢の人が死に、さらに死に続けるであろうという状況を考えると、簡単に否定できるほど脆弱なものではない。なのに、なぜそんなに簡単に(ほとんど感情的に)彼の「理念の欠如」を否定できるのかが分からない。「心のままに」という時の「心」の根拠はどこにあるのか、と。この場面から、ミネバに対する不信をぼくは持った。
(否定したことへの不信ではなく、その否定があまりに簡単に、直情的もいえる感じでなされたことに対する不信。とはいえ、ミネバのフル・フロンタルへの反感は、人が人工知能に対してもつ反感に似ているとも言える。)
そして明らかにバナージは、ミネバに強く引っ張られているようにみえる。もしミネバがいなければ、バナージとフル・フロンタルが、対立を含み、緊張を維持しながらも、協働するという道もあり得たのではないか。
フル・フロンタルはバナージに、時間の果てにある空無を実際に見せている。それはつまり、「結論から振り返ってみれば、お前は間違っている」ということを示しているということだ。宇宙の終わりには「可能性」の発展形はない、と。フル・フロンタルの考えが冷たくて他人事のように感じられるのは、彼がこの終点を既に知ってしまっているからだ、ということをバナージも理解したはずだ。バナージはここで、フル・フロンタルの言う「わたしと同じ絶望」を体験したと言える。だが、バナージは時間の外で究極の「答え」を知り、自らの「間違い」を自覚した上で、なお「希望を信じたい」と願う、つまり「間違い」の方を選択する、のではないか。フル・フロンタルは、「結論」は確かにお前に見せた、その上で何を選択するのかについては「お前に託す」ということで、「潮時か……」と言って身を引く、のではないか。
ガンダムマニアではないので具体的には知らないのだけど、ガンダムの宇宙世紀シリーズでは、「UC」の前と後の物語が既にあるということだ。そして「UC」の後は、かなりひどい時代が待っているらしい。それは、バナージは明らかに間違ったし、失敗したということであろう。そのことを(歴史の外にいる)観客は知っているし、フル・フロンタルから時間の果てをみせられたのだから、バナージ自身も知っていたと言っていいのではないか。その上でなされる、バナージの(間違いと分かって「可能性」を選択する)決断を支持できるのか、ということをこの作品は問うている、とは言えないか。
バナージのこの決断の背後にはミネバの存在がある。つまり、たとえそれが間違いで(あるいは疑似餌で)あったとしても、ミネバには「希望(可能性)への賭け」が必要なのだ、という判断がバナージにあった、ということではないか。ミネバがフル・フロンタルを「感情」のレベルで受け入れられないのは、彼女が「可能性への賭け」を信仰しているからだろう。あるいは、ミネバにとって必要だというよりは、ミネバという「可能性」が、大多数の人間にとって必要だ、という判断があったのかもしれない。ミネバという具体的な他者の存在によって、バナージは「間違いを選択する」ことを選択した、とは言えないか。一度時間の外に出たバナージが、再び時間の内側へ戻るのは、ミネバという重力の作用のためだった、と。
(しかしだとすればバナージは、ミネバに引っ張られているとは言えても、騙されているとは言えない。)
バナージは、欺瞞としての「可能性」を肯定するために、真理としての「無(意味)」を否定すると言えるのではないか。可能性(希望)を「計算」に解消することで、殺し合いや苦しみを最小化しようとするフル・フロンタルの合理的ニヒリズムとは異なり、殺し合いや苦しみを助長し、増幅させる効果をもつこともある「可能性」を、それでもバナージは肯定しようとする。そこまでしてでも、「無(意味)」は否定されなければならないというのが、彼の出した答えなのではないか。つまり、「無(意味)」は、人間にとって殺し合いや憎しみ合いよりもさらに悲惨なのだから、(殺し合いへと発展する危険があったとしても)「可能性という神への信仰」が、人が生きるためには必要なのだ、ということか。この意味でバナージは既に、フル・フロンタルとは別のやり方で(裏返った)「大審問官」になっていると言えないこともない。このような見方はちょっとひねくれすぎているだろうか。
バナージの祖父サイアムは、「可能性という神」を信じることによって、死の間際までラプラスの箱を守りつづけ、次の世代に「可能性(への信仰)」を託そうとした。一方、フル・フロンタルは、「可能性(神)はない(=時間の果ては無)」という真理を、次の世代であるバナージに示した上で、それでどうするのかについては後に託して自身は身を引く。バナージは排他的な二つのものを託されて、そのどちらも抱えて生きることになる。
●この作品では、幸福の最大化(不幸の最小化)には還元されない可能性や正義といった「高次の何か」を保証するものがニュータイプであった。しかし、ニュータイプであるシャアの魂を宿しているようにみえる強化人間フル・フロンタルは、バナージに時間の果てにある空無を示す。それが可能なのはおそらく、ニュータイプ同士であればこの空無は共有できるということではないか。だから、フル・フロンタルから抜け出たシャアの魂を迎えにくるララァとアムロの魂にも、この空無は共有されているのではないか。フル・フロンタルの「絶望」はニュータイプの間では共有されている、としたら。だとすれば、「高次の何か」を保証するものこそが、「高次の何か」の存在を否定していることになるのではないか。すると、「高次の何か」への信仰を必要とするのは旧型の人間のみであって、ニュータイプでは既にそれは必要なくなっているということなのだろうか。そうなってはじめて、殺し合いはなくて済むようになるということなのか。