2023/05/11

(昨日の日記の言い直し。)

⚫︎『水星の魔女』で、社会改革を実現しようとするシャディクには、あるべき社会の明確なヴィジョンと、そこに至るための詳細な道筋(策略)があり、そしてそれを実行し得る力がある。ただし、彼の考える改革は、将棋の盤面上で限られた駒を取り合っているようなもので、そのヴィジョンには「世界そのもの」が変わり得るということ、つまり、この世界には「新しいもの」が生まれることがあるのだということが含まれていない。「新しいもの」が生まれることで「前提条件」が変わってしまうことがある。

それは、将棋をしているうちに将棋のルールが変化してしまうとか、駒の持つ意味が変わってしまうとか、盤面そのものが書き変わってしまうとか、そういうようなことだ。将棋では決してそのようなことは起こらないが、「この世界」では起こり得る。

シャディクは、『ガンダムUC』におけるフル・フロンタルに当たる位置にある。そして、「UC」において、フル・フロンタルの構想が棄却され、バナージとミネバのカップルがリーダーの座につくのは、ただ一つの理由、つまり彼らが「新しい(つまり「若い」)」ということによるのだ。バナージとミネバには、経験がないだけでなく、具体的なヴィジョンもほとんど無いに等しい。しかしそれでも、「新しさ」だけが「現状の世界」の「外」であり、未来の希望であるのだった。

だが『水星の魔女』では、ヴィジョンと力を持つのが若者(シャディク)であり、「新しいもの」の可能性を担っているのが、過去の怨嗟に縛られ、自分の娘でさえ手段として使うようなプロスペラである。つまり、若く、善意に満ちた者ではなく、過去に強く囚われている者(しかも、シャディクら子供の世代ですらない、先行世代=母)が「新しいもの」の役割を担うという逆転がある。これが『水星の魔女』に仕掛けられた一つのねじれだと言えると思う。

(「UC」におけるバナージやミネバと同様に、「水星」において無垢な魂を担うスレッタは、無垢であるが故に母に支配され、無垢であるが故に怪物化する。ここにも大きなねじれ―-あるいは「UC」への批評-―が仕掛けられている。)

新しい世代による「社会の改革」と、古い世代による「新しさの実現(世界の改変)」は、どちらも「現状の社会」に対して否定的であり、その転覆を狙っているという点では共通しているが、両者がどの程度、共通の利益を持ち、妥協可能なのか、不可能なのかは、今のところわからない。シャディク-ペイル社連合と、プロスペラ-ミオリネ-グエル連合の正面対決があるのか、それとも、そのような構図を表面では保った上で、裏でシャディクとプロスペラが怪しい駆け引きをするのか…。

常識的に考えれば、「新しいもの」を占有する「古い母」から、それを奪取するのが、ミオリネ-スレッタ(そしておそらくエリィ)という「娘たち」の、個としてのつながりなのではないか、ということになるが。