2023/07/05

⚫︎『水星の魔女』の、説明を最低限に抑えてどんどん進んでいく感じは、観る側の読解力と想像力とを尊重するという態度だと思う。要素をギチギチに詰め込んでいるような展開は、決して足りない尺に無理やり詰め込んでいるのではなく、むしろ、詰め込むことによって説明を少なくして読解と想像のため「余白」を確保しているということだろう。繰り返しになるが、エピソードを過剰に重ねることは作品を説明化し、どこまでも説明を求める観客は作品の奴隷となる。自らの力と意思で積極的に読み込もうとしなければ、作品の展開についていけない。そして、注意深く読み込んでいくと、この作品がいかな精密に組み立てられているのかがわかる。

⚫︎『水星の魔女』にはいくつかの軸があるが、社会を変えるという意味での革命の軸で考えると、主役はシャディクということになるだろう。結果としては、シャディクとミオリネの軸というべきか。シャディクによる改革の目論見は、後から遅れてやってきたミオリネによって、一応は達成される。ミオリネに美味しいところを持っていかれたということにもなるが、シャディクの目的は自分自身が報われることではなく、社会を変えることだから、それが達成されれば満足であろう。シャディクは、自分の策略のためなら他者を駒のように用いて、その命さえ平気で奪う。それはつまり、自分自身もまた、積極的に状況の中で「捨て駒」となる覚悟を持つということだ。

(「進めば二つ」を捨てて、「何も得られなくてもするべきことをする」へと変化したスレッタと、自分自身を積極的に「捨て駒」として使うシャディクは、この作品の中でも特別に利他的で倫理的な人物だと言える。しかしこの高度に倫理的な二人は、共に「人殺し」であるのだ。)

シャディクはミオリネに対して特別な感情を持っている。そのようなミオリネが、自分の策略の目的を理解し、(その手段に対しては批判的であるとしても)目的の達成に協力したということは、つまり「自分がミオリネに理解された」ということだから、シャディクにとってはそれだけで十分に「報われた」ということだと思う。たとえ、(他人の罪まで背負って)今後の人生の全てを獄中で過ごすことになるとしても、彼にとっては幸福な生であるのだと思う。そもそも、革命家が獄中での生活を覚悟していないわけがない。

(他人の罪まで負うことまでが「捨て駒」としての自分の役割だと、シャディクは考えているのだろう。)

シャディクは、貧しく、迫害される側の孤児であり、しかし、特別に高い能力を持つために、迫害する側に拾われ、そこで十分な教育を受け、迫害する側で将来、高い地位を得ることを期待されている。彼のそのような「私的な事情」が、シャディクに「私的な生」を捨ててまで「社会の改革」を担う「公的な生(革命)」に奉仕する人物となることを強いた。彼には、動機と、それが可能な能力と地位がある(その全ての条件を満たす人は彼以外にいない)。つまり彼の境遇(生まれと育ちと特別な能力)が、彼が「私的」であることを許さなかった。彼は、自分の生の全てを「公的な目的」に捧げている。そんなシャディクの生において、なけなしの「私的な領域」に存在するのがミオリネだろう。

だからこそ、ミオリネが自分の持つヴィジョン(公的目的)を理解し、その達成のための最後の役割を自ら進んで引き受けたことは、(ある意味ではミオリネに「捨て駒」として使われたわけだが)それ自体が彼の「私的な生」にとっての報いであるはずだ。

シャディクは、逮捕されることでようやく「公的な役割」を終えて、ここから初めて獄中での「私的な生」が始まる。ミオリネからの理解を得られた彼のその後の生は、気高く幸福なものとなるだろう。

(もちろん、「シャディクの革命」の背後で、犠牲になって死んだ多くの人がいる。とはいえ、シャディクが行動しなければ、それとは「別の」多くの人々が(変わらない社会の中で)死んだだろう。)

⚫︎『水星の魔女』のほとんど唯一のモヤモヤポイントは、プロスペラの最終的な目的が何だったのかが今ひとつはっきりせず、何となく曖昧なまま終わってしまったこと。それによって、プロスペラの人物像がやや弱くなってしまったかな、と。