2023/06/11

⚫︎『水星の魔女』、21話(プロローグを含めると22話め)。前回までは、物語はどこまでも拡張していくかのような構えだったが、ここへきて急速に、物語が収束モードに入ってきた感じ。それも、無理矢理という感じではなく、収まるべきところに、見事にスーッと収まり始めた。とはいえまだ先は読めず、波乱要素もある(ラウダ!)。

⚫︎「進めば二つ」というのは、進めば二つのものが手に入るという利己的な思想だが、そこから「何も手に入らなくても、出来ることをすれば良い」という、非利己的な倫理にスレッタの思想が変わっている。この、小さいが大きな変化をちゃんと描いているところがすごい。とはいえ、実はこれはミスリードで、この「何も手に入らなくても…」は、一義的には「支援に必要な物資が手に入らなくても、あるもので出来ることをすれば良い」という意味で、「自分の利益としては何も手に入れることができないとしても、なすべきことをする」という倫理的な宣言とは、微妙に文脈が違う発言だといえるのだが、後者の意味にもとれる言葉を、「あのスレッタ」が堂々と口にするのを見ると、無理矢理にでも後者の意味にとりたいという気持ちになる。

⚫︎必要最低限の場面を、とても早いテンポで見せているのに(ほとんどいつも、音=セリフに対してカット・画面・場面が食い気味に先行する)、複雑な話がストンと理解できる。それは、さまざまな要素が圧縮されているのに、それがちゃんと立体的に組み立てられていて「かたち」が見えやすいからだと思う。おそらくそこが、たくさんの要素をベタッと盛り込んでしまっている「Gのレコンギスタ」と違うところではないか(「Gレコ」は何度見ても、物語が途中でわからなくなる、その混乱が魅力でもあるのだが…)。

登場人物がやたらと多く、最初の頃は誰が誰ともよくわからなかったキャラたちも、見ているうちに自然に一人一人が粒立って見えてくるようになる。それは、一人一人の人物のエピソードや描写を長く描き込まなくても、ある特定の状況に対する一つのリアクションを適切に見せることだけで十分にその人物の特徴や厚みが出せる(ここでそれを言う!、ここでそう動く!、みたいなものを適切なタイミングで印象的にスパッと入れる)、という手法に依るのだと思われる。そしてそれが可能なのは、物語の構築・構成と人物関係の配置の精密な織り合わせによる。物語の要素と人物の性質が、とても適切に配置されている高度な劇作。アニメとしては、あまり「動かない」貧しいアニメで、その点では、お金と優秀な人材を湯水のように浪費した「シン・エヴァ」の豪華さの足元にも及ばないが、「物語を語る」媒体としてのアニメの成熟度を感じさせるという意味では、驚くべき達成を示していると思う。

⚫︎プルデューの『ディスタンクシオン』に「他者の合理性」という概念があることを、「100分de名著」の岸政彦の解説で知った。

(以下、拡大解釈気味だが…)その人が、そのようにしてあるのには、そうであるしかない複合的な理由=合理性があるのだという考え。その人は、そのようにあるしかない必然性の中で、そうある。これは運命論のようでもあるが、少なくとも、その人がそうあることには、正しいとか間違っているとかいった判断には還元できない複合的な事情がある。これは勧善懲悪とは相容れない考えだろう。しかし、だから全てが許される、全てがなるようになる、というわけにはいかない。複合的な理由があったとしても、許されないことは許されない。だが、許されないと分かっていても、それしかないという場合もある。

全てのものには、それがそうである理由がある。(単純な勧善懲悪を憎む)そのような認識のなかでもなお、運命論的なニヒリズムに陥らないためにはどうすれば良いのか。運命論への戦いと、その敗北。そして、それでもなお戦うのか? という問い。戦うとして、それはなぜなのか。いや、そもそも「戦わないこと」など可能なのか。このような問いが、「ガンダム」というシリーズを通して問われる問いだと思われる。ほとんどニヒリズムと見分けがつかないニヒリズムへの抵抗。ほとんど運命論と見分けのつかない、運命論からの脱出の手探り。『水星の魔女』は、そのようなガンダム的な問いが、極めて高い精度を持ち、強い力が込められた形として構築されている作品であるように思われる。

⚫︎「母の都合」の良いように作られたスレッタも、ミオリネとの出会いや、人々が死んでいく状況の中で、母を相対化し、自分としての自分の位置を得ることができた。シャディクに対しては冷静になれないグエルも、地球での経験を経ることで、シャディクを殺すことは思いとどまることが出来た。それがそうあるには、簡単には解けないそうであるしかない理由があるという認識は、人を成長させるだろう。しかし、個々のプレイヤーの成長が、必ずしも状況を好転させるとは限らない。ある状況がそうであるには、そうである複合的な理由がある。

アーシアンによるベネリットグループへの抵抗運動は、地球からスペーシアンを排除するという排外主義の方向を持つ。これは悪手で、これだと地球は益々ジリ貧になるしかないだろう。とはいえ、アーシアンの「感情」としてはそうならざるを得ないだろう(ノレアの「憎悪と殺意」は合理性では解消されない)。このような地球の悪循環を、シャディクは「力」と「策略」によって強引に断ち切ろうとする。シャディクの「志の高さ」と「横暴さ」とは、彼の「絶望」を裏地として不可分に繋がっている。そして、シャディクの「志」は、彼とは全く別の「複合的な理由」を持つニカに受け継がれる。