2023/04/19

●『水星の魔女』、第二シーズンの二話目。以下、シリーズ全体を通してのけっこう重要なネタバレがあります。

ぼくには「シン・エヴァ」はまったく納得できなかったし面白くもなく、庵野秀明に対する興味も無くなってしまったのだが、『水星の魔女』は、「シン・エヴァ」がやるべきだったのにやらなかった、あるいはできなかった領域に踏み込もうとしているのかもしれないという感触があった。ちよっとエヴァ感が出てきた感じだが、それでも容易にエモに流れないがっしりした世界設定のベルでの基盤があり、それが可能なのはやはり「ガンダム」シリーズの蓄積があるからなのだろうと思う。

それにしても「娘がもう一人いる」というのは想定外で驚かされた。あー、そうくるのか、と。こうなると、この物語のクライマックスは、いよいよ、母と娘の対決しかないのではないかと思えてくる。『水星の魔女』では、これまで様々な、父と娘、父と息子の対立(対決)があり、現在もまさに、緊迫した父と息子の対決(サリウスとシャディク)が進行中だが、それらの主題群の総決算として、最後にはスレッタと能登麻美子(母はもう、役名ではなく「能登麻美子」としか思えない)の対決があるのだろう。

この母と娘の関係には、物語的に様々な機能が織り重ねられている。親と子の関係、先行世代と後続世代との関係、保護者と被保護者、あるいは洗脳者(教祖)と被洗脳者(信者)との関係、そして、アニメに限らず至る所で便利に使われる「無垢でポジティブな美少女キャラ」が、いかにして安易にそれを消費し利用する者たちに逆襲できるのか、という問題も。

(能登麻美子は、碇ゲンドウよりもずっと強力で狡猾な碇ゲンドウであり、スレッタは、碇シンジよりもずっと無防備で魂が露わな碇シンジだ。)

ただし、『水星の魔女』には、「エヴァ」的な軸(親と子、スレッタと能登麻美子の関係)があるだけでなく、「ウテナ」的な軸(家父長制的世界における女性たち、スレッタとミオリネの関係)があり、そして「ガンダム」的な軸(社会の階層間対立、そこから必然的に導かれる暴力的闘争、そして革命への希望としてのサイコフレームの光とニュータイプ)がある。この三つの軸が立体的に重なりながら展開されていることが、この作品を非常に優れたものにしているのだと思う。

今後どうなるかは分からないとしても、少なくとも現時点では、『水星の魔女』は、(ジャンルを問わず)「物語」というものによって可能になるものの最も高度な達成を更新しているのではないかと思えてくる。

●居場所のない孤児に、衣食住を与えた上で「兵士」として教育(洗脳)して利用するというのは、残念なことにこの世界の中ではよくあることで、例えばソフィやノレアはそのような存在だろう。そしてスレッタもまた、水星という辺境で、母の目的に利用されるために教育(洗脳)されているという点で、ソフィやノレアと同類なのだ。

シャディクは、グラスレー社CEOの養子という位置にいるが、もともと孤児であり、義父であるサリウスに資本主義の申し子のように教育される。それは、貧しく、ただ使い捨てられる兵士=テロリストとして洗脳されたソフィやノレアに比べれば随分と恵まれているのだが、孤児が、資本主義的な利用価値として有用である(利用可能である)ことによって生かされているという意味で、兵士として利用可能であることによって生かされたソフィやノレアと同類だとも言える。彼は、実の子であるというだけで「息子(娘)」の位置が得られる他の「息子(娘)たち」とは異なる。

(学園内にも社会的階層差はあり、例えばアーシアンスペーシアンから差別的に扱われている。しかしそうだとしても、学園に入れるという時点で、アーシアンであっても恵まれていると言える。テロリストとしてしか生きることのできないソフィやノレア、あるいは「裏切り者」であることでしか学園内にいられないニカのような「孤児」の存在が、学園の「外」を、あるいは親子関係という「呪い」とは別の軸を、強く感じさせる。)

このように、立場的、社会的には対立する人物も、別の側面から見れば同類的な類似性をもつ。その上で、洗脳された通りに、テロリストとして生き、テロリストとして死ぬしかなかったソフィに対して、自分を生かした(教育・洗脳した)父に対して反逆をくわだてることのできるシャディクは、恵まれていると言うしかない。そして、実の娘であり、かつ、洗脳された者という「二重の呪い」を持つスレッタが、母、かつ、洗脳者である能登麻美子に対して反逆をくわだてることができるとしたら、どのようにしてなのか。