2023/04/20

●「好き」でも「憧れる」でもなく、「萌える」でも「推す」でも「尊い」でもない、「尊敬する」という感情はとても重要で、ある誰か、もしくは誰かが作った創作物を尊敬するという感覚がないと、おそらく人はよく生きることができない。

「尊敬する」ということは、「信仰する」ということにとても近いが、違っているところは、「信仰する」が、ある対象との垂直的な関係を表すが、「尊敬する」は、垂直的であると同時に水平的でもある関係を表すという点だと思う。尊敬する対象は、仰ぎ見るものであると同時に、それと自分とが同等ののものであり得る(尊敬するという感情は、自分がそれと同等であろうとすることを自分に対して要求する)という関係にある。

「わたし」は、「尊敬の対象」から得たものを、「わたし」が「尊敬の対象」と同等であろうとすることを通じて、「尊敬の対象(あるいは、「尊敬の対象」が存在するこの世界そのもの)」に返そうとする。

『水星の魔女』は、「尊敬する」ことが困難な時代における「尊敬する」ことの可能性をめぐる物語でもあるのではないか。家父長制的世界であり、かつ、象徴界が充分に機能しない世界において、親子関係は支配-被支配になりがちだ。シャディクは、支配者である父との関係を転覆しようと企て、スレッタは支配者である母に依存する。下克上か依存かという関係において「尊敬する」は機能しない。しかし、シャディクにしろスレッタにしろ、彼らの持つ「能動力」は、支配者である親から得たものである。父サリウスは、自らが息子(養子)に与えた力によって逆襲され、母プロスペラは、自らが娘に与えた力を、自分の目的のために利用しようとする。

つまり、親-子、あるいは、教師-生徒という関係において「尊敬する」がうまく機能しない(下克上か依存か、になってしまう)。

垂直的でもあり、水平的でもある「尊敬する」という主題は、「エヴァ」的な軸からも、「ガンダム」的な軸からも出てこない。出てくるとすればそれは「ウテナ」的な軸からであって、スレッタとミオリネの関係からだろう。スレッタとミオリネの関係が、スレッタとプロスペラの関係にどのような影響を与えるのか。おそらく、『ガンダムUC』に足りなかったのはこの部分なのではないか。バナージとミネヴァの関係の希薄な感じ(バナージとミネヴァの関係が、バナージとフル・フロンタルの関係に影響を与えているようには見えない)。

●(追記)「エヴァ」において、アスカとマリの関係が、そのようなものである可能性を持っていた。マリは、シンジではなくアスカと共にいるのが自然だと思う。しかし、庵野秀明はそういうことに全く興味がないのだろう。