2023/07/03

⚫︎『水星の魔女』、24話(プロローグを含めると25話め)。こんな完璧な最終回があるのかという驚き。VECTIONのきくやさんは「水星の魔女」は「新古今和歌集」だと言っているが、唯一欠点があるとすれば「綺麗にまとまり過ぎている」というところか。とはいえ、「綺麗にまとまる」のレベルが、普通にそう言うときのそれとは一段も二段も違っている。全てのカットに意味があり、それらが一つでも欠けたら成立しない、というくらいの密度と精度だと思う。なのに、ギチギチではなくきちんと余裕もあって余韻がある(これはもう、0点何秒というレベルでの全てのカットの長さの操作、余白のレイアウトによるのだろう)。物語の展開としても、無理矢理に言いくるめるような、強引だったり欺瞞的だったりするところが差し当たり見当たらないのに、この複雑な話をちゃんとハッピーエンドと言えるところにまで持って行けているというのは、とんでもなくすごいことだと思う。ガンダムの魂が21世紀にふさわしい形に更新されて、今もなお、最前線で生き続けているのがすごい。

(最後の最後でニュータイプ要素がいきなり濃厚になるのが「ガンダム」の常だった。死者たちの復活。ここではオカルトに走りすぎず、パーメットリンクやデータストームという形で理論的な正当化がなされているが。)

(最終話の主役は、なんといってもペイル社のCEOたちだろう。資産を全て失い、加えてエラン・オリジナルに辞表を提出されたときの「ぽかんとした顔」(常に策略に勝利してきたこの四人が間抜けな顔を見せるのは初めてだろう)と、三年後の四人のお茶会のカット、この二つで完全に持っていかれた。あらゆる登場人物に「厚み」を持たせるいうのは、こういうことなのだと思った。)

(前も書いたが、その人物のエピソードが丁寧に語られなくても、ある場面でのちょっとしたリアクションを上手く拾うことで、その人物像は十分に表現される。逆に、エピソードを重ねすぎると「説明」になってしまう。)

ベネリットグループの「父」たちが無力化された一方、宇宙議会連合の側の「父」もまた無力化される。ベネリットグループの父たちを無力化したのはシャディク(と五人の女たち)だが、宇宙議会連合の父(権力者のことであり、権力を支える武力=惑星間レーザー砲のことである)を無力化したのはスレッタとエリィ、そしてミオリネだと言えるだろう。その意味で『水星の魔女』は、子供たちの世代による革命の話なのだ(そして、革命は「罪」を伴う、グエルも、シャディクも、スレッタも、ミオリネも「手を汚す」…)。前にも書いたが、シャディクが父を裏切ることができる力を得たのは、父からであり、スレッタが母を裏切ることができる力を得たのも、母からである。シャディクもスレッタも、そしてミオリネも、親(というか、前の世代)の力をハックすることで、親(前の世代)を批判的に乗り越え、乗り越えるという形で、継承する。

(シャディクの目論見は、シャディク単体では失敗したが、シャディク+ミオリネの協働としては成功する。ミオリネはシャディクの屍を足場として、それを乗り越えて進む。)

ただ、革命といっても、グエルは不幸な形で父を殺してしまったが、結果として、シャディクも父を殺さないし、ミオリネも父を殺さない。そしてスレッタも母を殺さない。殺さないということは否定しないということで、乗り越えることで継承するということだ。だから、親と子との立場の逆転という出来事が生じる(母の奴隷だったスレッタが、主体的に母を肯定することになる、これが革命でなくて何なのか)。そして少なくともミオリネは、既に自分たちが下の世代から批判的に乗り越えられるべき存在となったことを自覚しているようだ。

ミオリネは言う、(1)人の数だけ「正しい」がある、故に(2)いつか必ずどこかで間違う、(3)それでもできることをする、と。(1)だけなら、陳腐な決まり文句のようなものでしかない。とはいえ、前にも書いたがこれは「他者の合理性」でもあり、どんな人にもその人がそのようであるしかない必然性の中でそのようにあり、その必然性は「(共同的・普遍的)正しさ」によっては解消されない。「ガンダム」は長い時間を費やして繰り返しこのことを描く。しかし、あらゆる「(ローカルな)正しさ」、あらゆる「(個別的な)合理性(必然性)」が平等に並立的に存在できる状態はあり得ず、そこには力の不均衡が必ず生じ、権力(支配・被支配)が発生し、不均衡は固着し、増大する。つまりそれが(2)で言われていることだ。(3)では、それでも、あらゆる「合理性(必然性)」に対して、できる限り平等になるような、あるいは少なくとも、諸「合理性(必然性)」間の抗争ができうる限りフェアにあり得るような、現状よりは少しでもそこに近づくような努力を行う、ということが言われている。しかし(3)には、そのような状況を仮につくれたとしても、そこには再び「別の不均衡」が現れて、それが固着し、増大すると言う傾向が生まれるだろうという予測(いつか必ずどこかで間違う)が含まれている。

だから「(3)それでもできることをする」のは、「わたしたち」だけでなく、次の世代の人たちでもあり、その時には「わたしたち」は批判され、乗り越えられる。上の言葉はミオリネのこのような自覚を表しているように思われる。最後の場面で、車椅子の母の傍で、スレッタと子供たちが遊んでいる。スレッタやミオリネにとって、この子供たちは彼女たちを「裏切るべき」新しい世代であり、彼女たちは、子供たちに「わたしたち」を裏切ることができるだけの力を与えるという責任を負っている。子供たちが「それでもできることをする」ことができるようになるために。

(ただし、この「批判的継承の繰り返し」が決して「進化(進歩)」とはならず、ある意味では「同じことの繰り返し」であるというニヒリズムが「ガンダム」にはある。進歩主義への批判として。だが『水星の魔女』では、その事実をニヒリズム的に示すのではなく、たとえそうだとしてもその全体を、その都度での「新しいもの」の誕生を、肯定的に示そうとしているように思う。それ故のハッピーエンドなのだろう。「革命」という言葉が「革命が起きれば(前の世代は粛清されて)正しい世界がやってくる」というニュアンス・幻想を含むものであるとすれば、これは革命の否定であるかもしれない。我々は何度も何度も「いつか必ずどこかで間違う」のだから。)

(キーホルダーの内部に移動したエリィ、というか「エリィたち」だが、なぜかキャラがいきなり変わってしまっている…。)