2023/07/02

⚫︎三鷹SCOOLで「面とはどんなアトリエか?」、第三回。「版なき世界の「面」について」。

⚫︎七里圭さんの話を聞いていて、「版」という問題設定によって問われているのは、技術的、あるいは物質的な問題であるというより、「権威への信頼」の問題であり、また「起源への遡行可能性」の問題なのではないかと感じていた。

出版社のことを版元というが、「物質としての版を所有している(版を生産可能である)」者のみが、それによって複製物を複製し、配布する権利を持つ。そして版を持つ者の限定性(独占性)が、その複製物の正真性(オリジナル、あるいは現実への遡行可能性)を保証する。例えば、聖書を出版し、配布する権利を持つのが日本聖書協会であるとすれば、その団体の権威が、そこで配布される聖書の正真性を保証する。誰でもが勝手に聖書をコピーして配布することができるのならば、その伝達経路の中で誰かが恣意的に改変したとしても、それに気づくことができない(オリジナルへの遡行性が確保されない)。まさに、家族が異星人と入れ替わっていたとしても気づけない(ボディースナッチャー)。

(オリジナルネガを持つ映画会社のみが、そのプリントを制作し、配給する権利を持つ。映画会社への信頼が、その映画が「改変されていない」ことを保証するものとなる。しかし、フィルムという一まとまりの物質が、デジタル情報へと還元されると、「映画という一まとまり」であることの物質的根拠がまず失われる。さらに、誰でもが簡単にコピーし、拡散できてしまえば、それが改変されていないことを証す遡行可能性がなくなる。)

あるいは日本円を印刷できる「版」を持つのは造幣局のみであり、その独占性が「この紙切れ」が「本物のお金」であることを保証する。お金はどうしても、紙切れとは「質感」が違うように感じてしまう。しかし、電子マネーが一般化すると「版」の権威は消失する(媒介物=紙幣がなくなり、数字・記号のやり取りしかなくなって、現金の呪物性は消えるだろう)。あるいは、日本政府の権威や信頼が失墜すれば、リテラルに「紙切れ」になる。

(そもそもそこには、金本位制=価値のオリジナル性の解体があり、金融資本制=価値の相対性への移行があることで「版」のリアリティが生まれた? ということだろうか。「版」のリアリティとは「モノ」のリアリティから「媒介者の権威(信頼性)」のリアリティへの移行によって生まれる? )

だから「版」とは、オリジナル(現実・物質)と複製物(あるいは表現的加工物)との間にあって、複製物とオリジナルとの関係を保証する権威のことでないだろうか。そこには、そもそもそのような権威がどこまで信用できるのかわからないという危うさがあり、しかし同時に、まずとりあえずは信頼できると仮定しても大した支障はないであろうという信頼が成立しているという前提がある。危ういが(繰り返し検証され、批評されなければならないが)、しかしかなり強く信頼されている。近代的なメディア(出版や映画、放送など)の持つ権威性とは、そのような(「版」を持つ、といった)ものだったのではないか。

(例えば、活版印刷による印刷物の持つ独自の質感は、そのような権威の隠喩、あるいは「権威が十全に機能していた」ことの隠喩として作用しているのではないか。)

多くの作品や批評、言説などが、そのような(「版」を生産し、所有できるとみなされる)メディアから出ていたことが、それ(表現・言説)と現実(オリジナル)との通路の保証となり、それに「厚み」を与えていた。

(名の知られた版元から単著を出しているからこの物書きは少なくとも検討の対象たり得るだろう(と、とりあえずはみなされる)、テレビのCMで流れているからこの企業は信頼できる(と、とりあえずはみなされる)…。)

(映画会社に就職できて、監督にまで出世することができたのだから、ちゃんとした映画を作る能力があるのだろう…、しかし今では、何処の馬の骨ともわからない奴の撮った動画がいきなりバズったりする。)

例えば、陰謀論的な記事があったとした場合、その信憑性は、とりあえずその記事がどのようなメディアから出されているのかによって判断されるし、差し当たり、それ以外の判断方法はない。メディア(「版」を持つ者)への信頼が無意識のうちに働いていれば、その記事が現実を反映したものであることを疑う必要をそもそも感じなくて済むし(つまりその記事にはリアリティの厚みがあり)、エビデンスを示せと言ったり、ファクトチェックをしたりする必要もない。しかし情報の伝達経路が怪しい場合、その記事のリアリティは宙ぶらりんにされる(地球人か宇宙人かわからない)。

「版」の消失はまさに近代の崩壊であり、それは「世界への信頼(を導くための一つの体制)」の崩壊であるから、由々しき問題であることは間違いないと思う。とはいえ、だからといって従来通りの大規模な「版」の再生、再創造というのはあまり現実的ではないし、それが望ましいとも思えない。しかし、「版なき世界」では、本当に薄っぺらな陰謀論(あるいは強大な資本主義)に飲み込まれてしまうという危機感はぼくにもある。そしてこの課題への明確な答えはない。

(「権威への信頼」がなくなったからこそ、多くの人がベタに権威主義的になっている感じはすごくする。「権威への信頼」とは、批判も含めた権威との緊張関係が成立しているということであるはずだから。「権威」に、それを批判して、常に改善させていく努力をするだけの余地があり、価値があるという信頼があるからこそ「批判する」わけだが、信頼がなければ、なるべく関わらないで済ませようとするか、何も考えずに盲従するかの、どちらかになるだろう。)

⚫︎権威と切り離された形での「起源への遡行可能性」という点については、(誰も話題にしなくなってしまったが)「ブロックチェーン」という技術があるし、それを用いたビットコインは、今なお、ちゃんと機能し続けている。ブロックチェーン、暗号通貨、DAO(分散型自律組織)については、多くの人が胡散臭いものとして敬遠しているようだけど、「版」に代わり得るものの一つとして真剣に考えるべき可能性を持つと思う。

⚫︎ダゲレオタイプの写真や、エジソン的なダイレクトカッティングのレコードは、再生可能性はあっても、複製可能性がない。ダゲレオタイプの写真は、(パース的な意味で)インデックスであるかイコンであるかの違いだけで、絵画と変わらない「唯一の物」だ。しかし、フィルム(版)を間に咬ますことで複製可能性が出てくる。ここで写真や映画がインデックス記号であり、そのインデックス性が複製されたものにも辛うじて引き継がれると考えられることが、写真や映画が、複製メディアであるにも関わらず、そこで表象された世界そのものとの物質的なつながりを持つ(ベンヤミンに反するが「アウラを持つ」)特権的なメディアとされる所以だろう。これが、映画のリアリズムを肯定する論拠の一つとなっている。この意味で、版画(イコン)や出版(主にシンボル)と映画は異なる。

(インデックス記号とは、熊の足跡や熊の糞が「熊の存在」を表す記号となるという種類の記号で、記号が指し示す対象と物理的、直接的なつながりのある記号のこと。写真は、現実にある光がフィルムを直接感光させるという意味で、フィルムに物理的に残された爪痕がそのまま像となることからインデックス的と言われる。しかし、デジタル映像の場合は、一旦デジタルデータに変換されるから、「インデックス性=世界への経路」は失われ、イコン的記号となる。)

フィルムによる写真や映画には、いわば聖骸布的な(あるいは、ダイレクトカッティング的な)直接性の「名残り」がある。このような写真や映画のインデックス性(直接性)をどの程度まで高く評価するか(どの程度に重要であると考えるのか)は、とても難しい問題で、まさにオカルト的な領域にも関わってくるもので、ぼくにも迷いがある。

⚫︎それとは別の話として、映画の説得力が、映画の制作の(技術的・資金的・労働的)大変さから来ている部分も少なからずあったと思う。アンゲロプロス的なカットを撮るのがいかに大変なことかということが、その映像に重みと説得力を与えていたところも大きいと思う。スマホと自撮り棒で結構なところまでやれてしまうという事実(本当はできないとしても、できちゃいそうな雰囲気)があった場合、そのアウラはかなり失われる。

⚫︎客席から出た将棋の話が面白かった。羽生善治のような古い世代は、終盤は理詰めで指すしかなく、間違わずに正しく指せるかどうかだけが問題となるので、誰が指しても同じだが、前半には、それぞれの棋士の世界観が出る(棋士によって違う世界観が並立する予知=自由がある)と考える。しかし、藤井聡太のような、初めからAIには勝てないというところから始めた世代は、前半は、可能性が広すぎてAIが示す(根拠が定かではない)定石通りに指すしかなく、人間の頭で計算可能になった終盤にこそ指し手の自由の余地があると考えている節がある、と。実際、藤井聡太は終盤に驚くような手を指すことがある、と。「自由」に関する概念が逆になっている。藤井聡太の自由は計算によって導かれるわずかな隙間のようなもので、豊かな可能性としての自由は想定されていない、と。