2020-08-13

●オカルトは好きなので気分転換に動画をよく見るのだが、額縁込みでも一万円以下で買えてしまうルオーの複製画(量産品)を、「呪いの絵」にしてしまうのは、ネタの仕込みとしてあまりに雑なのではないか、と思ってしまった(下の動画)。

【呪い?】いわくつきのピエロの絵を三木住職が供養

https://www.youtube.com/watch?v=q5ikqBkXbNo

プリキャンバス複製画・デッサン額仕上げ(6号相当サイズ) ルオー・「ピエロ」

https://item.rakuten.co.jp/goupil/20160729003/

謎めいた呪いの絵に仕立て上げるには、ルオーはあまりにもメジャー過ぎる。ただ、ルオーの作品に、そこに呪いを感じてしまうくらいの力がある、ということはあるかもしれない。確かにこのルオーの絵は、もし仮にルオーを知らないで観たという状況を想定するならば、なにかしらいわくありげなものに見えるかもしれない不思議な表情をしている。

(誰が見てもルオーでしょ、しかも明らかに複製、と即座に思ってしまう人が、それによって見えなくなっているものもある。)

●有名な作品の---世界中に拡散されているであろう---複製画には「呪い」が宿る余地がない(「呪い」は、曰くの起源にのみ宿る)、と言い切る根拠はどこにあるのか。『リング』のVHSテープがそうであるように、「呪い」とは、「複製が可能である」というその事実ものの別名とも言えるのではないか。

あるいは、量産品で同型のものが無数にある熊のヌイグルミがあったとして、たくさんあるなかの「このヌイグルミ」に呪いが宿ることは、感覚的に納得できる。ならば、複製品であるが「このポストカード(複製画)」に呪いが宿ることも納得し得るのではないか。

ただ、ヌイグルミの場合は、「このわたし(ある固有の誰か)」と「このヌイグルミ」との間に、交換不可能な固有の---愛憎にまつわる---関係が生じ、その関係の固有性によって呪いが宿るということを想像しやすい。対して「このわたし」と「このポストカード」との間に、固有の愛憎関係がすり込まれるという事態は、まったく想像できないということはないが、その想像にヌイグルミと同等の説得力をもたせるのは困難であるように思われる。人とヌイグルミとの関係と、人とポストカード(絵)との関係とは、かなり違っている。

(だがこの場合、「呪い」が人間の愛憎という感情を介してすり込まれるという前提の話になっている。そうではなくて、非人間に起源をもつ「呪い」ということを考えると、その限りではない。)

ただ、複製可能だという点で同じだったとしても、これが絵ではなく写真だったらまた違ってくる。(パース的に言えば)絵はイコンだが、写真には(複製によって限りなく希少になるとしても)インデックス性があるので「呪い」と相性がいい。

では人形はどうなのか。人形は、ヌイグルミほどには人と密接な愛憎関係は結びにくい---置物としての人形の場合---し、写真のようなインデックス性はなく、絵と同様にイコンだ。にもかかわらず人形が呪いと高い親和性をもつのは、人形が「人の形をした三次元のもの」だからではないか。人形には、起源-呪いの有無にかかわらず、それ自体がモノとして既にただ怖い、というところがあるかもしれない。

●呪いは、ある曰くの起源(オリジナル)に宿るという感じと、呪いとはつまり、伝播し反復するもののことだという感じとは、排他的ではなく両立する。というか、この両者がセットになることで「呪い」という概念は成立するのではないか。そして両者を結びつけるのが、呪いの依り代(媒体)だろう。呪いには、起源と、持続的に存在したり複製されたりする媒体と、再帰的に生起する出来事とが必要となる。

たとえば、ルオーの量産された複製画が呪いの媒体であることに説得力をもたせるとしたら、「量産された複製画」が呪いの媒体となることに必然性があるような形での「起源の物語」あるいは「再起された出来事」の創造が必要となる、ということか。