●クラウスのテキスト「メディウムの再発明」を読むとき、「固有的なもの(スペシフィック)」を強調すると文脈的にちょっと(モダニズム寄りに)硬直してしまうので、重要なのは、技術的支持体がメディウムたりえるための「再帰性」をもてるのか、という問題だと考えた方がいいように思う。
(一般に「作品」と出来事の違いは再帰性をもつ点にある。厳密には異なるとしても、同じ戯曲を何度も上演できるし、同じ曲を何度も演奏できる。あるいは、厳密にはその都度異なるそれらの現れを、「同じ」とみなすことが――社会的、制度的に――認知されている時、それは「作品」と呼ばれる。)
ここでメディウム再帰性とは、ある技術的支持体の組み合わせが、同一性を保ちつつも、自己を更新してゆくことを可能にする何か、あるいは、社会のなかで、その都度違ったものが、反復的なあらわれとして認識されるための何か(慣習のようなもの)、というくらいの意味でとればいいと思う。再帰性がある(この前Aと認識したものが、今もAと認識できる)からこそ、それを固有のものAと呼べる。Aさんは10年前から比べると10キロ太り、その間に転職をして結婚もしたけど、10年前に事件aを起こしたAさんと同じAさんであり、罪に問われる。この時、Aさんの(内的同一性ではなく)同一性を社会的に確保するためのものが再帰性と言える。Aさんの社会的同一性を保証するものは、Aさんの物質的な同一性だと、とりあえずは言える(厳密には、新陳代謝しているのだけど、DNA鑑定などが可能)。絵画Bの同一性も物質的にある程度保証できる(退色や劣化が多少あるとしても)。しかし、ある特定の空間や関係性を前提として、複数の支持体の特殊な組み合わせとして成立した作品の同一性(再帰性)は何によって確保されるのか。「慣習」では、資料映像や図録、作品についての言説などの集合体によって特定される。つまり再帰性が「慣習」に依存する。
では、複製技術による作品はどうなのか。映画作品の同一性は、物質的な根拠を採用するのならばオリジナルネガによって保障されるということになろう。あるいは、メディウム=装置的に考えるならば、フィルム、映写機、スクリーンという装置によって上映されるのが映画であり、パソコンのモニターで再生されるものは映画ではないことになる。しかし、おそらく現在ではそのような「慣習(メディウム再帰性)」は成立していない(維持されていない)。つまり「慣習(メディウム)」は、社会的、産業的、技術的条件の変化によって変化する。変化はするにしても、ある一定期間、安定的に作動するのが慣習であろう。
(ここで慣習とは、ガタリの「機械」とほぼ同義なのではないか。)
映画は長いあいだ、フィルム-映写機-スクリーンという装置で上映されるのが慣習であり、そのようなメディウムとして成立していた。しかし、そこに技術的、物質的な必然性はない(例えば、エジソン型映画もあり得た)。慣習には、技術的(物質的)な側面だけではなく、社会的、産業的、政治的な側面の関与があり、それらの協働やコンフリクトによって、その組み合わせ(合成)が決まる。
(複製技術による作品の同一性は、データにあるのか、その現われ方にあるのか。例えば、同じデータであれば異なるモニターで見ても同じ作品なのか、それとも、ある一定の条件で観られた時のみが、その「作品」と言えるのか。これらを決めるのも多くの場合、慣習であろう。)
映画が、フィルム-映写機-スクリーンという装置として成立し継続されなければならないという技術的、物質的な必然性はない。あるいは、いつまでもそのような形でありつづけなければならないという必然性もない。しかし、たまたま歴史的に成立してしまったフィルム-映写機-スクリーンという装置によって生まれる(そういう形でなければ生まれなかった)、固有の経験の質というものはある。フィルム-映写機-スクリーンという装置でなければあり得なかった、様々な経験の固有性が、様々な映画作家によって追及され、創造されてきた。そのような「経験の固有性」は、メディウムの必然性や再帰性とは「別のもの」として存在する。例えば、デジタルメディアによって「それ」を再現しようと試みることも可能だろう。
(とはいえ、「固有の経験の質」などというものが本当にあるのか、という議論もあり得る。)
ある特定の技術的支持体の合成(装置)によってしか生まれない(それでしか再帰されない)、とても強い「固有の経験の質」があるとする。クラウスの言う(再発明される)メディウムの固有性というのは、実はこのことをこそ指すのではないかという風にも考えられる。しかし、だからと言って、その装置が、(社会的に、あるいはある一定のコミュニティのなかで)再帰性をもち得る「慣習」となるとは限らない。そこには、社会的、産業的、政治的、その他様々な要素の介入がある。
前者(「わたし」への作用としての経験)に重きを置くのか、後者(関係・社会への作用としての慣習)に重きを置くのかで、「観測者の位置」が変化するので、「言説」は相当ちがった振る舞いをすることになる。
●だけど実は、レベルの異なるこの両者を混同させてしまう力こそが、「作品」というものの可能性だと言えるのだが。ここで再帰性は主に、後者の観点から、再帰性=慣習=メディウム=関係(社会)という話になっているけど、これを前者の観点からみてみると、再帰性=イメージ=呪い(憑き物)=経験という風になって、作品という界面でこの両者が重なる。再帰する経験(イメージ)というのは要するに反復強迫的な「憑き物」のことだと言える。「よりまし(メディウム)」と「もののけ(イメージ)」が重なる(重なり損ねる)舞台としての「作品」。