2019-12-05

メディウムスペシフィックを避けたいという感じが強くある。「絵画に固有な問題」「小説にだけできること」「アニメだからこその表現」みたいなメディウム固有性の強調によってかえって、個々の作品、作家、需要者、場(場面)などの存在の個別性(固有性)が見失われるように思われる。

それぞれが別の存在である(別の固有の身体をもち、別の固有の来歴をもつ)ことを認める。その上で、それぞれの固有性の間を、横断的に乗り越えられるものがあり、乗り越えられないものもある。

(勿論、それぞれのメディウムもまた、それ自身の固有の身体---組成---をもち、固有の来歴をもつのだが、だからといって、メディウムの固有性が、個々の作品、作家、需要者、場面、などの固有性よりも、どんな場面でも常に無条件で優位であるといえる根拠はない、ということ。どんな固有性も、他の固有性に対して、無条件で優位であるということはないはず。)

あらゆることが、個別の存在たちの、その都度の個別の出会いであり、出会い損ないであり、故に、厳密に、正しく理解し合うことを目指すよりも、直観的に、大雑把に捉えて、間違ったり誤解している部分があっても、そこから別の道が開ける、と考える方がよいのではないかという感じがある。

これは逆から言えば、対話、あるいは横断性は、ごくまれにしか成立しない、ということでもある。だからこそ、間違いや対話の不成立に対して寛容である必要があると思う。

(というか、そもそも「正しさ」を前提とすることが間違っているのではないか、とも思う。)