●さまざまなメディアやジャンルにおいて「〜にしか出来ないことは何か」みたいな問題設定をときどきみられるけど、そのような問題の立て方は、間違いではないとしても、あまり面白くない(あるいは、それだけでは足りない)と思う。
もちろん、各々のメディウムには、それぞれ固有の問題(条件)があり、それぞれ固有の歴史(来歴)がある。鳥は空を飛ぶし、魚は水のなかを泳ぐ。いきなり、鳥を水に沈め、魚を宙に放っても、死んでしまうだけだ。鳥は空のなかでこそ鳥なのであり、魚は水のなかでこそ魚なのであり、このような条件(限定)をそう簡単に外せないという問題は、忘れられるべきではないだろう
(ここを簡単に忘れてしまう人が多い、というのもまた事実なのだけど。)
しかし、重要なのは、鳥にしか飛べないことは何か、魚にしか泳げないことは何か、ということではない。鳥は、魚が泳ぐように飛ぶし、魚は、鳥が飛ぶように泳ぐ。鳥は、水を泳ぐ魚を内包し、空においてそれを実現し、魚は、空を飛ぶ鳥を内包し、それを水のなかで実現する。そこで交換されているものは何なのか、そのような交換はどのように可能なのを問うことの方が、有意義で興味深いことであるように思う。
(メディウムスペシフィック的な主張は、しばしば社会派---社会反映論的な作品評価、あるいは政治運動としてのアート---への対抗言説として、芸術の自律性を主張するものとしてあり、一定の意味をもったという過去が確かにあることは認めるべきだが、現在では、問題の布置そのものが変化していると思われる。)