●大雑把に、メディウムスペシフィック、ポストメディウム、トランスメディウムという仕分け(連続と不連続)を考える。これは厳密な定義ではなく、自分勝手なもので、たんにスケールというか規模の違いをあらわすものとして考えている(歴史的な展開のことでもない)。例えば、ポストメディウムとトランスメディウムの違いは、複数のメディウム、複数のアクターがかかわるという規模をポストメディウム、もっと多く、あるいは大きな規模で、メディウムやアクター、資本なども絡むのがトランスメディウムと考える。だから、メディウムスペシフィックとポストメディウムとの間にも、大きな断絶があるわけではない。要するにぼくがここで考えているのは、「近代絵画」「(ぼくが興味をもっている範囲での)現代美術」「深夜アニメ」のことだ。
そしてそれらは、それぞれ「内的感覚」「生活世界」「世界(社会)構造」について思考し、表現する。
「内的感覚」は、無数の脳細胞、多数の身体器官の協働が一つの脳(身体)として現象するということで、「生活世界」は、複数のメディウム、複数のアクターの協働が一つの場として現象するということで、「世界構造」は、無数のメディウム、無数のアクターの協働(ネットワーク)が一つの世界(社会)として現象するということだと言える。つまりここには、「多と一とそれを媒介するもの」という三つを貫く共通した構造があると同時に、それぞれに質的、スケール的な違いもある。
(例えば最近の美術には、小さなフレームを大きなフレームによって解体しようとする動きが強くある――閉じられた関係性からより開かれた公共性へ、というような――が、そうすると小さなフレームでのみ問題に出来ることが消えてしまう。「そのフレームの大きさ」でこそ問題にできるものを考え、そしてその上で、別の規模のフレームとの共通性と違いとを考える必要がある。)
「内的感覚」「生活世界」「世界(社会)構造」は、スケールの違いであって、概念としての明確な境界線があるわけではない。「内的感覚」と「生活世界」、「生活世界」と「世界構造」とは、明確に切り分けられない場合もある。しかし、規模の違いに伴って、どこかで明確な相転移的な変質(境界線)があらわれる場合もあるだろう。
メディウムスペシフィックの作品は、一つのメディウムと、そのメディウムに特化した作家(画家、彫刻家、小説家)によってつくられる。ポストメディウムの作品は、複数のメディウム間の関係性と、それらを操作する作家(あるいは作家チーム)によってつくられる。トランスメディウム的な作品は、多数のメディア、多数アクターのネットワークと相互作用、力の抗争のなかでつくられる。トランスメディウム的な作品が「世界構造」を思考し、表現できるのは、それが「世界構造」のなかで、「世界構造」によって、思考され表現されるからだろう。
メディウムスペシフィック、ポストメディウム、トランスメディウム。これら、フレームの規模のことなる作品について考えることで、我々の思考も、異なるフレームの違いと連続性を捉え、行き来すことが可能になるのではないか。