●ストラザーン、ヴィヴェイロス、ジェル、デスコラなどの翻訳が「叢書 人類学の展開」としてどーんと出る。さらに加えて、小島信夫長編集成も出しているわけで、水声社、すごすぎる。
http://www.suiseisha.net/blog/?p=4803
ジェルの『Art & Agency』の翻訳も出るというのがうれしい。以下、二年前と三年前の日記。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20120318
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20130210
●昨日、『キャラクターの精神分析』(斎藤環)で語られている「同一性」と「固有性」についての話を西川アサキさんとちょっとしていた。斎藤環は、「固有性(人間)−単独性=同一性(キャラ)」という式を示していて、キャラとは(たとえば、その背後に一つの主体=欠如をもつ「ペルソナ」とは異なり)ただ「同一性」のみを伝達する記号だとしている。この式は、同一性=固有性−単独性、固有性=単独性+同一性、単独性=固有性−同一性という形で、とてもシンプルに三項を互いの関係によって定義できるから、もし有効なら、トランスメディウム・ポストメディウムメディウムスペシフィックということを考える時にも便利だと思われ、オリジナルであるクリプキに当たれば、同一性と固有性についてのもう少し厳密でつっこんだ議論が読めるのではないかと期待していた。
でも、西川さんによると、そもそもクリプキにおいては、「同一性」と「固有性」という概念に本質的な違いはないということだった。というか、「同一性(あらゆる可能世界において同一なaが存在し得る)」という概念を成立させるための根拠として、「固有性(どのような属性とも無関係に同一であるaが存在し得る)」という概念を出してくる必要があった、と。つまり「同一性」と「固有性」とは論理構成上のテクニカルな要請によってあみ出された相補的な関係の概念で、同じことを言っているだけなんじゃないか、と。
だとすれば、クリプキの用語と比較すると、斎藤環の書く「横断的」な意味での同一性はクリプキの「同一性」に、「幽霊的」な意味での同一性がクリプキの「固有性」に近い感じになるので、斎藤環の概念(式)にクリプキを代入して強化し、発展させることはできなさそうな感じだ。
とはいえクリプキの議論を参照することで、斎藤環における二種類の「同一性」の性質の違い(というか、相補性)を明確にできるという点では意味があると思う。例えば斎藤環は、キャラは「固有名」をもたないと言いつつ、同時に、キャラの同一性を担保するのは「名前」だけだとする。つまり、キャラは固有名と匿名の間にある、と。この一見無理やりな論理は、クリプキにおいて、横断性=複数世界を貫く「同一性」=属性の流動化は、幽霊性=属性とは無関係に維持される同一性=「固有性」があってはじめて成立する、と言われることと重なる。クリプキの定義に従えば、複数世界への横断性は固有性(固有名)によって担保されることになるのだが、斎藤環の議論においては、固有性(固有名)という語は「この世界(このわたし)」が「一つ」であることを主体に刻み付けるもの(父の名)として使われている。だから、クリプキならば固有名というであろうところを、たんに「名前」と言わなければならなくなる。
(さらに、単独性という概念をどうとらえ直すのかということも、けっこう大変なことなのだけど。「キャラクター…」のなかでは単独性という語については特につっこんだ説明をしていないが、当然、柄谷行人がふまえられた語として使われていると思われる。)
斎藤環の「固有性」には「欠如をもつ主体」という意味が刻まれていて、だから「固有性(欠如+同一性)−単独性(欠如・トラウマ・隠喩)=同一性(換喩)」という感じだろう。だけどこれだとオブジェクトレベル(多)とメタレベル(一)の双方に属し、それをつなぐのは、特権的な主体としての「人間」だけだということになってしまう。そこで、オブジェクトレベルとメタレベルとをつなぐ(行き来する)人間以外のエージェント(中枢的な何かではあるが人でないもの)を入れて考えることが難しくなる。
だがここで、精神分析的な「欠如」や「父の名」という概念を完全に外してしまうのも、何か違うように思われる(それなしに本当に「個」が成立するのか、と)。