●昨日の日記で引用しつつ要約したのは、『心的現象論序説』(吉本隆明)の二章までのところで、そこまではなんとか話の筋道を追うことができるのだけど、三章に入ってから出てくる原生的疎外に対する「純粋疎外」という概念を理解するのが難しい(そして、三章は異様に凝縮されていて要約のしようがない感じですらある)。以下、純粋疎外について書かれた部分をいくつか引用する。
《たとえば、わたしがいま〈Aはかくかくの理由でBと同一であるにちがいない〉と判断したとする。このばあいA(なる物体でも事象でもよい)はわたしの判断作用にたいして外的な対象性であるかのように存在することができる。古典哲学が〈理性〉的な判断をわたしが所有するというとき、あたかもAなる対象がわたしの判断にたいして対象的な客観であるかのような位相を意味している。しかし、Aなる理性的対象とわたしの判断作用の位相はここに固定されるものではない。この位相は、あたかもAなる対象性とわたしの判断作用とがきり離しえない緊迫した位相をもつこともできる。つまり〈Aはかくかくの理由でBと同一であるにちがいない〉というわたしの判断が、この判断対象ときり離すことができず、わたしにとって先験的な理性であるかのように存在するという位相である。ここで〈純粋〉化された理性の概念が想定される。わたしたちは、このような〈純粋〉化の心的領域を、原生的疎外にたいして純粋疎外と呼ぶことにする。そして、この純粋疎外の心的領域を支配する時間化度と空間化度を、固有時間性、固有空間性とかりに名づけることにする。》
《わたしたちは、原生的疎外の心的な領域では、眼前に灰皿を視たということからはじまって、恋人の家でみた灰皿を連想することもできれば、その連想をどこまでも転換させて、眼のまえに灰皿を視たというはじめの出発点を忘れ去って遠くへゆくことができる。このばあい視覚はたんにあらゆる心的現象の契機をなすにすぎない。しかし、純粋疎外の心的領域では、眼のまえに灰皿を視たということから対象としての灰皿を離れることもできなければ、また対象的知覚をたんに視覚的反映の段階で手離して他の連合にとびうつることもできない。灰皿と対象的知覚とは離れることなく錯合される。この領域では、わたしたちの意識は現実的環界と自然体としての〈身体〉に依存するとかんがえない。同時に依存しないともかんがえない。依存することと依存しないこととは共時である。いいかえればひとつの錯合である。このような心的な領域は、あらゆる個体の心的な現象が、自然体としての〈身体〉と現実的環界とが実在することを不可欠の前提としているにもかかわらず、その前提を繰り込んでいるため、あたかもその前提なしに存在しうるかのように想定できる心的な領域である。原生的疎外を心的現象が可能性をもちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は、心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。》
《(…)わたしたちの純粋疎外は(原生的疎外はもちろん)現実的環界の対象も、自然体としての〈身体〉もけっして排除しない。ただ、純粋疎外の心的領域では、これらは、ひとつの錯合という異質化をうけた構造となる。わたしたちの純粋疎外の概念は原生的疎外の心的領域からの切断でもなければ、たんなる夾雑物の排除でもなく、いわばベクトル変容として想定されるということができる。》
《原生的疎外と純粋疎外の心的位相はつぎのように図示することができる。(第5図)》



《ここで、純粋疎外の心的な領域が、けっして原生的疎外の心的な領域の内部に存在するとかんがえているのではない。それとともに外部に存在するとかんがえているのでもない。構造的位相として想定しているのである。いいかえれば内部か外部かという問いを発すること自体が無意味であるように存在すると想定している心的な領域である》
●純粋疎外の心的領域とは、知覚の対象物とその判断とが一体化していて、かつ、心的現象が、現実的な環界や身体から、あたかも自律して存在し、作用している「かのように」みえる領域である、と。しかしそれは、現実や身体を何らかの操作によって排除することによって抽象化したものではなく、環界や身体と一次的な対応が存在している原生的疎外の領域から、ベクトル変容によって異質化されたものなのだ、と。
おそらく、このようなややこしい概念が必要だった理由の一つに、「心的現象は物理的な実在に還元できる」という唯物論的な認識もまた、「心的現象」のうちにあらわれるひとつの観念でしかない、という「観念論」に反論できない、という循環を避けるため(あるいは、循環そのものを問題とするため)ということもあるのだろう。原生的疎外は、どちらかというと唯物論寄りに構成された心的領域であり、純粋疎外は、どちらかというと観念論的に構成された心的領域であり、この両者がベクトル変容によってつながっている、という必要があったのではないか。
故にこの『心的現象論序説』では、心的現象の原因として物理的世界を前提にするのだが、同時に、心的現象を物理的原因に還元することもしない、ということになっているといえる。ここにあるのは(よくある、といってもいいであろう)オブジェクトレベルとメタレベルとの二重性であり、実際、純粋疎外において念頭に置かれているのは、ハイデガー的な現存在の二重性である。
ハイデッガーによれば、存在しながら、存在を了解することができ、自らの存在によって存在そのものを問題にできる存在が現存在(人間)であり、この現存在が一般に存在というものを漠然と理解したり、解釈したりする根元が時間とよばれる。》
ハイデッガーの現存在の概念は、わたしたちの純粋疎外の概念と類似している。しかし、ハイデッガーの現存在は、心的領域としては、あらゆる現象学的な還元によって心的経験を排除することによって残される現象学的な残余の本質である。しかし、わたしたちの純粋疎外の概念は、原生的疎外からのベクトル変容であり、いまだ、わたしたちは、環界としての現実をも、生理的基盤としての〈身体〉をもすこしも排除していない。また、どのような還元もおこなっていない。その理由は(…)対象性としてみられる心的領域が、対自性をもふくめてあらゆる可能性をもって存在しうるようにみるという心的な相互規定性の輪郭を根拠なく失いたくないからである。》
●だからおそらく、純粋疎外という概念で問題になっているのは、(環界や身体に還元されない)自己にたいする自己の関係性、わたしの心的領域に対する、わたしの心的領域の関係性の「可変性」ということになるのだろう。つまり、関係性が《あらゆる可能性をもって存在しうるようにみる》ということではないか。
●まず、原生的疎外として考える場合、「心的現象」は《現実的な環界に〈事実〉として存在するものと〈身体〉が存在するがゆえにかならず想定される対象物の受容、解釈、それから連合などの作用とが交錯することによって生ずる》ものとされた。故に、心的領域では《かならずある時間性と空間性の内在的な度合(Grad)によって対象的認識も、本来的認識も変容をうける》、と。だからこそ、〈異常〉や〈病的〉に心的現象においては、身体の生理的時間性や現実的環界り自然的空間性との「一次対応」が失われることもあった。
●知覚作用において私たちは、それぞれの感官によってそれぞれ異なる空間化度をもってる。たとえば視覚は、対象との距離や方向、形態や色に関する限定を受けとるというような空間化度をもつ。しかし触覚の空間化度は、色も距離ももつことはなく、身体の「運動の直接性」という形で空間化度をもつ。嗅覚や味覚はさらに直接的であり、いわば「浸透の直接性」とでもいうような空間化度をもつ。さらに聴覚は、遠隔化された触覚にたとえるこができるような空間化度をもち、あたかも物体から外延される全空間との触覚性もつように感じられる。
では、このような知覚受容に結びつく時間化度はどのように想定されるか。もっとも単純に考えれば、生理的身体上の神経伝達の速度として時間化度を考えることができる(クロナクシー)。速い細胞は興奮するのに短い電流しか必要とせず、遅い細胞は長い電流を要する、というような。
《しかしながら、たとえば〈Aはかくかくの理由で馬鹿である〉というような判断的な理性がしめす心的現象の時間化度は、すでにこの神経生理的な〈クロナクシー〉の規定をこえてしまう。そこでは〈A〉という人物への対象的指向のつぎに〈かくかくの理由〉が継起的にかんがえられ、つぎに〈馬鹿である〉と判断されるという分割された概念をそれぞれの仕方でむすびつけうる速度が、時間化度の本質である。そして、すでにこのようなときには、人間は生理的自然としての時間化度を超えてしまっている。この分割された対象性の再構成が〈クロナクシー〉によって規定される時間化度を離脱すればするほど、わたしたちは高度な時間化度をもつものと考えられる。》
●では、純粋疎外の心的領域における時間化度と空間化度の概念はどう考えるべきか。それについて検討しようとする時、ここでまた心的現象の〈異常〉や〈病的〉なあり方が持ち出される。ここでは、ハイデガーのような垂直的二重性が、「わたし」の並立的分離という病的経験(あるいは幽体離脱的経験)としてとらえ直されているところがとても興味深い。クルト・シュナイダー『臨床精神病理学』から、分裂病にかんする考想化声や身体被影響体験が検討される。
《考想化声は、じぶんの思考が音声となってじぶんに聴こえるという現象をさしている。この現象はさきにのべた聴覚の本質によってかんがえれば、じぶんが聴きとるということが、じぶんの思考を外延的に空間化して聴覚に達せしめることを意味している。じぶんの思考が自己に聴こえるという心的な現象は、じぶんにとってじぶんが対象的な話しかけであるということを意味しており、純粋疎外の心的領域に属している。聴知覚は本質的にいえば、耳の鼓膜が物体の振動の空間的外延として共振するかどうかではなく、対象である物体を外延的空間として受容しうるかいなかにある。それゆえ、考想化声において主要なことは、じぶんの思考の振動とおなじようにじぶんの〈純粋〉聴覚が共振するかいなかということとはべつに、じぶんの思考が〈純粋〉聴覚にとって外延的空間として受容されうるかどうかに本質が存在している。》
《ところで〈自分の思考の振動〉とはなにを意味するのか。このばあい、あきらかに固有時間化度と固有空間化度の分割と構成の構造を意味している。考想化声のばあいのように、それが自身に聴取されることは、じぶんの思考がじぶんにとって〈遠隔〉であること、いいかえればじぶんの思考とじぶんとが、あたかも振動する物体と聴覚的受容のあいだとおなじように外延的空間を想定せずには結びつかないほどかけ離れていることを意味している。》
《この種の症状が、シュナイダーの例示しているように、自分のへそがひものように飛び出して、胸を通り頭の中へぐるぐる巻きあがるというような〈身体〉体験であっても、性行為をしているような感じの〈身体〉体験であっても、あるいは他から作為されて行動するという〈身体〉体験であっても、その本質は、じぶんの思考によってじぶんの〈身体〉が変容されるということである。したがってじぶんの思考の固有時間性が、じぶんの〈身体〉の時間性、いいかえれば〈クロナクシー〉からの一次対応から〈距て〉られていることを意味している。思考の時間性は、その判断の分割の速度にしたがって規定されるが、この判断のとりこむ空間性が自分の〈身体〉であるということは、べつに特異なことではない。ふつう、わたしたちは自分の〈身体〉についてどこそこに傷あとがあり、どこそこにアザがありというような判断をしばしばやっている。しかし、身体被影響体験に類するあらゆる場合には、思考の固有時間性にともなって〈身体〉の時間性は変容させられ、この変容の態様にしたがって、〈身体〉はその〈クロナクシー〉をすてて変容された時間性に対応する変形と、変形された行動とを体験するのである。》
●自分の思考が自分によって声として聴かれたり、自分の思考が他人からの強制のように感じられたりする経験では、「思考すること」とその思考を「了解する(受け入れる)こと」の間に距離(分離)が生じていることになる。この距離がここでは、「思考の(純粋疎外的)固有時間性」により、「身体のクロナクシー的な時間性(あるいは、一次対応的、原生的疎外的な時間性)」が変容させられて、「固有時間性」が生じていると捉えられることになる。あるいは、十分に変容し切れていないために距離(分離)が生じているとも言うべきかもしれない。
さらに、このような「思考(あるいは知覚の空間化度)」と「身体によるその了解作用(身体による時間化度)」の間の隔たりついて、フランスの医師イタールがアヴァロンの森で捕らえられた(一定の年齢に達するまで人との接触がまったくなかったと思われる)野生児について観察し教育した記録『アヴァロンの野生児』が引かれる。たとえば、アヴァロンの野生児は、非常に冷たい場所に長時間いても大丈夫だし、逆に、非常に熱いものに触れても火傷をしない。ここでは〈異常〉や〈病的〉な状態とは異なり、「思考(あるいは知覚の空間化度)」と「身体によるその了解作用(身体による時間化度)」の間に「隔たり」があるのではなく、「変容」が完成しているともいえる。
《アヴァロンの野生児のような未発達の人間や動物では、触覚の空間化度は等質ではないとかんがえられる。引用の状態では、感官(触覚)の空間化度は異常に低い時間化度とのみ結びつくほどに異常に低い仮象を呈する。つまり異常に低い空間化度のところで、はじめて身体の時間性と〈共時的〉に結びつく。しかしある場合、たとえば食物や性慾の対象にたいする触覚のように、繰り返し必要不可欠のものとして摂取しなければならない対象にたいしては、その空間化度は異常に高くなる。つまり、異常に高い身体の時間化度とのみ〈共時的〉である。》
《一般的にいって、未発達の人間や動物の感覚では、その対象的感覚の空間化度は、ある部分では飴のように異常に伸びて発達した空間化度にあるかと思うと、ある部分ではまったく無にひとしいほどに退化した空間化度にあるとかんがえることができる。ひとつの対象的感覚の内部でおこるアモルフな奇妙に歪んだ空間化度はその感官に固有な構造をもっている。》
《たとえば、わたしたちは嗅覚を聴覚よりも原始的な感覚であり、したがって低い空間化度にあるものとみなしてきた。しかし、感官による受容を了解作用とむすびつけてかんがえるとき、いいかえれば〈身体〉から疎外された時間化度とのむすびつきをかんがえざるをえないとき、さらにここの感官作用の空間化度の内部に構造を想定することがひつようである。この空間化度の構造の内部ではたとえば嗅覚のような原始的な低い空間化度の内部で、異常に高い空間化度によってしか〈身体〉の時間化度とむすびつくことはできないこと、いいかえれば異常に高い空間化度の仮象によってしか了解作用をもつことができないことがありうることを想定することができる。》
《感官作用の空間化度は、もし対象世界との相互作用としてだけかんがえるのではなくて〈身体〉の了解作用、いいかえれば時間化度とのむすびつきの作用としてかんがえると、その内部に位相的な構造を想定せざるをえなくなる。このとき空間は異質(heterogen)なものとなる。ある種の対象にむけられた感官作用は異常な長い通路でつながっているが、またべつの種類の対象に対しては結滞している。そしてこの空間化度の異質性(Heterogenitat)を測る尺度は関係意識の強度である。》
●感官の空間化度が、身体の時間化度(了解作用)とのむすびつきによって、現実世界(対象)との対応関係を変容させうる(空間を異質化させうる)と考えられるとすれば、原生的疎外から純粋疎外がベクトル変容として異質化されるというだけでなく、純粋疎外から原生的疎外へと向かう変容もあり得ると考えられるのではないか。