●『心的現象論序説』(吉本隆明)についてのメモ。ここでは、「心的現象」が発生する基盤として、有機的生命が無機的自然に対してもつ「異和(疎外)」を考える。生命がもつその異和は、無機的な自然としての外的環境に対してだけ生じるのではなく、同時に、有機体としての「自分の身体」に対しても生じているとする。つまり生物は、外的な自然(環界)と生理的な身体に対して二重の「疎外」をもち、これが「原生的疎外」と呼ばれる。この原生的疎外が、原生生物から人間に至るまでの「心的現象」を形成するための領域となる、と考えられる。つまり、心とは、世界からも自分の体からも疎外された何かである、と。
《まず、生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮りに原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってその疎外の打ち消しとして存在している。》
《わたしがいまわたしの〈身体〉を、かなりよく馴染んできた有機的な自然物としてみるとする。どこそこに傷跡があり、どこそこにあざがあり、どこに疾病があり、どうも胃や頭痛がいつも気にかかるといった内臓感覚を意識させるような〈身体〉である。このとき、わたしの〈心〉はおそらく、石垣の下の切り通しを歩きながら石垣の継ぎ目や、意志の膚色や、ときには背後にかくれた土の色をみているといった位相とあまりちがっていない。わたしは外界の無機的な自然をみているのとおなじように、わたしの〈身体〉をみている。このとき、わたしの〈心〉は、外界の無機的な自然物と、わたしの〈身体〉という有機的な自然物からと共通に抽出され、疎外された幻想領域を保存している。》
《(…)生命体は、外側を無機的自然に開き、内側を〈身体〉へと開くひとつの混沌とした心的領域を形成している。たとえば、原生生物では、この心的領域は、心的というよりも、たんに外界への触知にともなう無定型な反射運動にすぎないが、人間では心的領域というる不可触あるひろがりをもった領域を形成している。フロイトが〈エス〉と名づけたものは、この原生的な疎外の心的内容であるとかんがえられる。》
●では、人間とほかの動物との「原生的疎外(心的領域)」はどのように違うのか。ここは割合と常識的で、人の意識は、意識しているということを意識しているのだ、と。
《人間の原生的に疎外された心的領域を、他のいっさいの高等動物とへだてている特質は、心的な領域をもつこと自体ではなく、心的な領域をもつという心的な領域をもっている(精神を精神する)点にもとめられる。》
《しかし人間がそうなってからも動物のひとつの種属であることはかわりない。しかし、この種属は自分や他の種属や〈自然〉を考察することができるゆいいつの種属である。そしてこの考察は動物のひとつの種属に属するという位相からはなしえず、逆に観念を行使するものという位相からのみなしうるとともに、この観念なるものは台座としてのじぶんの動物性なしには独在できないという不可逆性を、いいかえれば矛盾をもった存在である。》
《もし量子生物学の発展が、生理的なメカニズムをすべて微視的にとらえうるようになったとき、心的現象は生理的現象によって了解可能となるか? もちろんこれにたいする答えは〈否〉である。ただし、不可知論的な否ではなく構造的に否である。(…)この本質は単純化して説明すれば、生物体としての人間が、個々の細胞の確率的な動きのメカニズムを把握しうるようになったとき、心的な存在としての人間は、すでに〈把握しうる〉ということをも把握しうる冪乗された心的領域を累加している。そういう前提をその把握が包括しているからである。》
●人の心的領域(原生的疎外)は、自然からの疎外と身体からの疎外という二重の疎外としてあることを考えなければならない、とする。そのとき、身体からの疎外としての心的領域を時間性(の度合い)、自然(環界)からの疎外としての心的領域を空間性(の度合い)として、分けて考えることで構造的なモデル化が可能である、と。
《(…)人間の心的な世界が、自己の〈身体〉の生理的過程からおしだされた位相と、現実的な環界からおしだされた過程としてあらわれるということ、そして、このふたつの位相は分離できないとしてもなお、混同すべきではない異質さをもっていること、などを明確にせしめるものとかんがえた(…)。》
《実在することが疑えないのは、いまのところ人間の〈身体〉と現実的な環界だけであり、観念の働きはなんらかの意味でこの二つの関数だといえることだけである。》
《生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、時間性(時間化の度合)によって抽出することができ、現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、空間性(空間化の度合)によって抽出することができる。》
《たとえば古典哲学が〈衝動〉とか〈情緒〉とか〈感情〉とか〈心情〉とか〈理性〉とか〈悟性〉とかよんでいるものを、身体から疎外された心的な領域とみなすばあい、それらは心的時間の度合とみなされうるということである。たとえば〈衝動〉とか〈本能〉とかよばれるものは、有機的自然に固有な時間と対応させることができる。〈情緒〉とか〈心情〉とよばれるものは、もはや有機的自然の時間と対応させることができないし、そこでは時間化度はより抽象され、この時間化度の抽象性は〈理性〉とか〈悟性〉とよばれるものでは、もっと高い。》
《おなじように、心的な領域を現実的な環界との関係においてみるばあい、空間化度の度合は、たとえば視覚的な領域では、対象となった〈自然〉の空間性とある対応をもうけることができるが、触覚のとりこむ空間性は、もはや対応というよりも接触とみなされる得意な空間性であり、また聴覚の空間性になると、その抽象度は高い、と考えることができる。》
《これを図示すれば第2図のようになる。ここで、A・B・C・D・Eという点をめぐるそれぞれの円環は、時間化と空間化の度合のちがった心的な働きであり、たとえばAを味覚や嗅覚のような知覚の領域とすれば、Eは視覚や聴覚のような心的作用であるし、またAを〈衝動〉とか〈本能〉とかの心的作用とすれば、Eは〈悟性〉とか〈理性〉とかいう心的作用の層面である。》



《たとえば、身体的な疎外としての心的なものが〈衝動〉あるいは〈本能〉と古典哲学が呼んだものであり、現実的環界からの疎外としての心的なものが〈視覚〉的なものであれば、その心的領域の構造は、図のAの領域でしめされるということである。じっさいは〈衝動〉または〈本能〉が、視覚的なものと交叉するとはかぎらないから、図の円錐状にしめされた心的領域は、無数の錯綜した時-空間の構造としてかんがえるべきである。ただ、ここでは心的な領域が時間性と空間性の抽出の度合いがつくる層面として、構造的に了解されるということを示したにすぎない。》
●このような構造モデルによって、(外からはうかがい知れない)個体の心的世界をとらえうるのか。『心的現象論序説』では、外からはうかがえない「個」としての心的な状態について考える時の例として、「病的」な心的状態が用いられる。たとえば心的に〈病的〉または〈異常〉といわれる心的な状態を、この構造は、どのように記述できるのか。
《個体の心的な世界は〈身体〉の生理や〈環界〉とのかかわりから、個体ごとに独自な構成をもっているために、どうしても対象的にはうかがい知れないところがうまれる。外からはうかがい知れないこの領域を包括する形で、生理と〈環界〉から生じながら、しかもそれ自体であるかのように挙動する心的世界の働きをとらえる機軸はありうるか?》
《心的な世界の〈異常〉あるいは〈病的〉というのは、身体からの疎外としての心的領域をみる位相からは、時間化の度合の〈異常〉あるいは〈病的〉ということを意味する。たとえば、〈衝動〉とか〈本能〉とかが、それに固有な時間性であらわれずに、〈感情〉とか〈理性〉とかいうように高次の抽象度をもった時間性で出現したとき、あるいはこの逆に、〈感情〉とか〈理性〉とかが〈衝動〉の時間化の度合で出現したとき、それは〈異常〉または〈病的〉とよばれる。》
《おなじように、現実的環界からの疎外としての心的領域をみたとき、たとえば〈視覚〉に固有な空間性が他の感覚、たとえば、〈聴覚〉に固有の空間性として出現したばあい、あるいはその逆であるようなばあいに、〈異常〉または〈病的〉とよばれる。そして、じっさいの〈異常〉または〈病的〉な現象はこの両者の錯合としてあらわれる。》
神経症(異常)と精神病(病的)の違いについて。『ニューロラカン』について書いた日の日記にも書いたが、神経症においては抑圧(防衛)が象徴的なものを通じて症状としてあらわれるが、精神病では、防衛という機制そのものが壊れてしまっている。この点についてフロイトは次のように書いている。
《私は神経症と精神病を区別する特徴を、さきに次の点で決めた。すなわち、神経症では自我は現実に従って、エス(衝動生活)の一部を抑圧するが、精神病では同じ自我がエスに奉仕して、現実の一部から引退がるのであると。神経症にとっては現実の影響力が決定的である。精神病にとっては現実の喪失は初めからあらわれるだろうが、神経症では現実喪失は回避されると考えざるを得ない。》(フロイト「不安の問題」)
●そしてこれを、『心的現象論序説』のモデルは次のように説明する。
《心的現状の異常とは、心的な空間度化と時間度化の錯合した構造が、有機的自然体としての人間の時間性(生理的時間性)と現実的環界の空間性との一次的対応が喪われない心的異変としてかんがえられるものをさしている。
心的現象の病的という概念は、すでに有機的自然体としての人間の時間性と現実的環界の空間性との双方からの心的対応性が喪われた心的変異として規定される。》