●『神々の沈黙』を読んでいる途中の寄り道として、ちらっと参照しようと思った『心的現象論序説』(吉本隆明)で予想外の深みにハマッてしまっているのだが、三章までを読めたところ(今日)でいったん一区切りとしたい。
●昨日の日記では、感官の空間化度が、身体の時間化度(了解作用)とのむすびつきによって、現実世界(対象)との対応関係を変容させうる(空間を異質化させうる)と考えられる、ということを書いた。これと関係すると思われる、ベルクソンによる空間の二重化について書かれているところをまず引用する。
ベルグソンによれば、或る種の動物が数百粁にも達する遠方から直線的にその巣にかえってくることができるのは、これらの動物において方位の感覚が、空間を質的に差別があるものとして弁別しているからである。つまり空間概念は動物においては等質なものではない。動物においては、空間における二つの異なった方向は、あたかも二つの異なった色彩のように弁別されている。》
《ところで、人間の空間概念の特色は、人間が空間を性質のないものとして知覚し弁別する能力をもっていることである。「我々は秩序を異にする二つの実在を認識すると云わねばならない。一つは異質的で感覚的性質の実在であり、もう一つは等質的で即ち空間である。人間の知性によって明確に考へられる後者が、截然たる区別を行ひ、計算し、抽象することを、恐らくは又話すことをも、我々に出来るやうにするのである。」(ベルグソン『時間と自由』服部紀訳)》
《(…)ベルグソンのこの空間概念は、等質的な空間の異なった距りや方位が、けっして持続運動の経路によって測られるのではなく、それを同時的に把握するものであるという点で、時間概念に移しかえられているということを指摘すればよい。》
《等質的空間のなかで運動している事物は、いつもただひとつの位置しかもっていない。一瞬前にもっていた事物の位置は、すでに空間に残っていない。しかし、これを視ている〈私〉の内部では意識した事物の有機的な組織化や相互浸透の過程が行われる。いま、さらにその上、この空間における運動する事物と運動を、排除してかんがえるとすれば〈私〉の内には相互排除性のない持続があり〈私〉の外では継続のない相互排除性がある。これがベルグソンの時間概念の根本をなしている内的時間の外面化である。そして〈私〉の内なる相互排除性のない継続と、〈私〉の外にある持続のない相互排除性を結ぶ転換点は、〈同時〉ということであり、これが時間と空間の交叉するところである。》
●ここではまず、動物的で感覚的な異質な空間と、人間的で計測的な等質な空間という風に空間が二重化される。さらに、〈私〉の内にある相互浸透的な持続する運動(感覚的な空間と対応する)と、〈私〉の外にある相互排除的で継続のない運動(等質的な空間と対応する)という風に、運動が二重化されている。そしてこの二つの空間-運動が「同時」によって転換(交叉)が可能であることによって、等質的だったり異質的だったりする〈時-空〉性がひらかれる。この「同時」という概念こそが、心的現象における(環界からくる)空間化度と、(身体からくる)時間化度との「むすびつき」を可能にするものだと考えられる。
●昨日の日記の最後のところで書かれたのは、感官からくる空間化度と、身体による時間化度(了解作用)との「むすびつき」の可変性であり、それによって空間が異質的なものになることができる(そしてそれは「関係意識の強度」によって測られる、と)ということたった。さらに、それに加えてある感官と別の感官との間に、異化結合が生じる可能性もあると書かれる。
《ある特定の匂いを嗅覚したとき、すぐにある視覚的な像とむすびつくというのは、正常な個体でもしばしば体験されることである。また〈異常〉な個体で、ある嗅覚を感じたとき、まったく無関係におもわれる視覚的な像の奔出に悩まされる症例がありうる。また聴覚作用が、すべてその受容の瞬間に無定型な像を奔出させるというばあいがある。》
《個々の感官の空間化度の位相に、あるひとつの構造を想定すれば、ある対象にたいしては、各感官がそれぞれの空間化度の段階をはなれて、他の感官の空間化度の位相に侵入する可能性がありうると結論される。そしてこの可能性の前提となるのは〈身体〉の時間化度と結びつくこと、いいかえれば感官の受容したものを〈了解〉とみなしうるとき、ということである。》
●たとえばその一つの例として、芥川龍之介「歯車」で、「僕」が「坐浴」という言葉を思い出した時に、あたりにどこにも硫黄などないのに、坐浴に用いる硫黄の匂いを感じるという描写が挙げられる。《このとき嗅覚の空間性は、その構造の内部で異常に高度な空間化度の仮象を呈し、他の感官の空間化度の位相に侵入することができるようになる。》
●しかしここで、あらゆる感官(五感)のなかでの「視覚」と「聴覚」の特異性が示される。視覚と聴覚は、その空間化度がそのまま(〈身体〉の了解作用とは無関係なまま)時間化度へと転化されうるからだ、と。
《聴覚と視覚にあらわれた人間の心的な特異性は、聴覚と視覚の空間化度だけが、そのままで構造的時間性に転化しうるものだという点に記せられる。ひらたくいいかえれば、聴覚と視覚のばあいにはある対象を〈聴く〉ことと〈視る〉ことは、そのまま時間として感ずることができるということである。たとえば、遠く響いている汽笛の音をききながら、わたしたちはしばしばそれを対象である汽船からの音をきいているのではなく、ただ音の響きをきいているという意識の瞬間を体験することがある。そのときわたしたちは聴覚において時間を知覚しているのだ。おなじように、眼のまえの灰皿をみているばあい、たしかに灰皿をみながら灰皿という対象を視ていないで、ただ〈視ている〉こと自体の時間であるかのような瞬間を体験することができる。このときわたしたちは視覚において時間を知覚しているのである。このばあいの時間は疑似了解の作用を代理しうるとみなされる。》
《〈異常〉な個体が、あるばあい作られた体験、他動体験として幻聴や幻視をもつことがある(もっとも幻視は、幻聴にくらべて、この種の意志にかかわりない強制体験としてはより少ないはずである。それは視覚の空間化度が聴覚にくらべて低いからである)のは、聴覚や視覚の空間化度がそのまま時間性として了解されることがありうるため〈身体〉の時間化度とまったく無縁であるかのような了解作用の仮象が成りたつからである。〈身体〉の時間化度と無縁であるかのような了解作用は、他者に属するという仮象をもった自己の体験、いいかえれば作られ強制された自己体験としてあらわれるほかはない。》
《純粋概念としていえば、嗅覚、味覚、触覚における空間化度は、そのまま(即自的に)時間性として感ずることはできない。だから作られ、強制された体験としての幻嗅や幻味や幻触は純粋概念としては、ありえないはずである。それはなんらかの意味で、対象との関係の幻覚としてだけありうるはずである。》
●ではなぜ、人間において聴覚と視覚が特異な位置をもつようになったのか。そしてそれが、どのように人間の心的世界の特異性(等質空間をもつこと)と関係があるのか。
《心的な存在としての人間は、不可避的に関係の意識を〈多様化〉し、また〈遠隔化〉してゆく存在である。意志によって拒絶する以外に、心的世界をせばめてゆくことも、停止のままでいることもできない。そしてこのような心的世界の本質にたいして、末端を可能性としてたえず開放しているようにみえる感覚は聴覚と視覚だけであるために、このふたつの感官は、ほかの感官にたいしても、また動物の感官にたいしても特異な位相を示すようになったとかんがえることができる。》
《〈関係〉の概念は、かならずしも眼に〈視える〉ものだけをさすとはかぎらない。心的世界が関与しているかぎり視えない〈関係〉も含まれる。そして、この視えない〈関係〉を人間が了解しうるにいたったことには、聴覚がかなりな深さで加担しているようにおもわれる。天空や自然森林の奥から聴こえてくる音や叫びが、どんな対象から発せられたのか判らないとき、人間はその対象物を空想においてつくりあげた。そして〈視えない〉ものを〈視える〉ものにおきなおすすべを意識としてえたとき、人間の〈関係〉の世界は、急速に拡大し、多様になったとかんがえられる。聴覚と視覚の空間化度が、そのまま時間性として受容されることがありうるのは、このふたつの感官作用が、視えない〈関係〉概念を人間にみちびくのに、本質的に参加していたからである。》
《なぜならば、視えない対象を関係づける意識こそは〈関係づける〉という橋わたしを、そのまま時間構造として了解する意識だからである。このような意識に適合しうる感官は、聴覚と視覚、とくに聴覚である。もちろん、視覚もまた想像的視覚、あるいは技術的媒体によって、視えない対象を視ることができる。》
《生理的にいって、人間は〈関係〉の意識が広がり、多様化するにつれて、感覚の空間化度を高度にしていったと推定することができる。そしてこの高度化は、了解作用の時間性とむすびつくとき、必然的に空間概念を高度化していったのである。聴覚や視覚がとどかないほどへだたった場所にある対象についても、人間がその存在を了解することができる(想像することができる)のは、高度化された空間概念のうちにその対象が包括されうるからであり、いわば高度化された空間概念の抽象的な等質性ということが、その媒介をなすものだということができる。》
●以上により、原生的疎外からのベクトル変容として規定された純粋疎外の領域に、どんな意味付けの変化があらわれるのか。
(1)原生的疎外も純粋疎外も、たんに空間化度と時間化度の交点や等質なベクトル変容として想定することができなくなる。異常に低い空間化度が異常に高い時間化度とむすびつく(あるいはその逆)がありえるから。
(2)高度な空間化度の位相で存在する感官(聴覚、視覚)により、心的な領域はすべて屈折をうける。この屈折を境界として、その一方の領域でのみ等質的な時間性と空間性が仮定される(第6図)。
(3)等質的な時間性、空間性が想定される心的領域で、異質な了解作用が成立する場合、あるいはその逆の場合、それは〈異常〉な心的現象とみなされうる。この〈異常〉は、動物や未開、未成熟段階の心性との類推をゆるすものではない。
(4)〈異常〉〈病的〉な心的状態とは、次の二つの条件を満たす場合に限られる。
1.心的な現象が〈身体〉の時間化度の外で了解されること。意志や判断的理性に統御されず、自己体験としては他からの強要として感じられる。
2.等質的な時-空性のなかで、異質的な時-空性が存在する、あるいは、異質的な時-空性のなかで等質的な時-空性が存在すること。
(5)ベクトル(原生的疎外)−ベクトル(純粋疎外)=関係意識、である。
●第5図によって示された心的領域のモデルは次のように微細化される(第6図)。原生的疎外と純粋疎外の領域は、空間化度の低い領域において(二枚貝のように)閉じられる。聴覚と視覚の領域を境として、均質的な時-空性は失われる。