●ちょっと思うところがあって、ドゥルーズ『差異と反復』を拾い読みしている。思うのは、すごく数学と物理学を使ってくるじゃん、ということ。数学(形式言語)によって、自然言語(自然言語レベルのロジック)では言えないことが言える、という感じが伝わってくる(この意味では構造主義を引き継いでいる?)。
でもたとえば、郡司ペギオ幸夫の本を読んでいて、なんとなくふわっと言いたいことは分かるが、これ以上突っ込んで理解するには圏論が分からないと無理っぽいと思って投げ出してしまったりするように(アイデアの根本が数学から来ているような場合、その数学が分からないとそのアイデアが掴めた感じがしない)、うーん、微分方程式か…、となってしまう。なんとなくふわっと比喩的には分かるが、それ以上突っ込んだ理解が難しい。ドゥルーズ入門のような本を書く人には、数学と物理学部分の解説をぜひやって欲しいと思う。ドゥルーズの数学のここが間違っている、みたいなことではなく、ドゥルーズの概念を理解するための数学・物理学解説みたいなやつ。
●以下は、『差異と反復』第五章からの引用、メモ。この部分は、自然言語の記述からでも理解できる(絵画論としても読める)。
《差異は、雑多なもの〔感覚されるもの〕ではない。雑多なものは、所与〔感覚に直接与えられるもの〕である。しかし差異は、所与がそれによって与えられる当のものである。差異は、雑多なものとしての所与がそれによって与えられる当のものである。差異は、現象〔与えられるもの〕でなく、現象にこのうえなく近い可想的存在(ヌーメノン)である。…それゆえ、神は計算して世界をつくるという話がまったく本当だとしても、その計算はけっしてきちんと割り切れるようになるものではない。計算の結果に残るそのような割り切れなさ、そのような解消されない不等性、それこそが、世界の条件をなしているのである。世界は、神が計算しているあいだに「できあがってくる」。その計算がきちんと割り切れてしまえば、世界は存在しないだろう。(…)世界内の実在は、或る種の分数、あるいはむしろ無理数との関連でしか考えることができない。(…)あらゆる雑多なもののあらゆる変化は、それらの充足理由をなす差異を指し示している。生起するもの、現象するものはすべて、もろもろの差異のレベル〔オーダー・秩序〕との相関関係にあるのだ。》
《差異は文字通りには「繰り広げ可能な」ものであるからといって驚くにはあたらない。差異とは繰り広げられるものである。だが正確に言うなら、差異は、おのれがそこで繰り広げられる当のシステムのなかで取り消される傾向をもつものである。そうしたことが意味しているのは、差異はその本質からして巻き込まれているということ、つまり差異の存在とは巻き込みであるということ、これだけである。》
《(…)差異は、それ自身の外におかれているかぎりにおいて、つまり、延長のなかに、そしてこの延長を満たしている質のなかに置かれているかぎりにおいて、取り消されるのである。ところが、その延長もその質も、差異によって創造されるものなのである。強度は、或る広がり(extensio)のなかで繰り広げられ、展開される。そしてこの〔強度の〕広がりが、強度を延長(extensum)に関係づけ、強度はその延長(空間)のなかではじめて、それ自身の外で質にくるまれて現れるのである。》
《(…)強度としての差異は、延長のなかで繰り広げられることによって取り消されるときも、それ自体においては巻き込まれた〔潜在的な〕まま存在する。》
《延長のなかで遂行されるもろもろの個体化を、当の延長が説明してくれないということは、驚くべきことである。なるほど、高低、左右、図(形)と地(背景)、これらは、延長のなかで、上昇下降、横の流れ、(背景の)沈降を描き出す個体化の諸ファクターである。しかしそれらのファクターは、すでに展開されてしまっている延長のなかで働くのであるから、それらの価値は相対的なものであるにすぎない。したがって、それらのファクターは、ひとつのより「深い」審廷の派生物である。すなわち広がりではなく、純粋な錯綜体である深さ〔おくゆき〕から派生するものなのである。なるほど、どのようなおくゆきも縦の次元になる可能生をもっているし、また横の次元になる可能性をもっている。しかし、その可能性が実現されるのは、ひとりの観測者が、見る場所を変えることによって、自分から見て縦といえるものと、他者から見て縦といえるものを、ひとつの抽象的な概念のもとで統合するかぎりのことでしかない。事実、以前に深さ〔おくゆき〕であったものがいまは縦になっているのは、つまり縦として繰り広げられているのは、つねに、新たに深さとされるものを基準にしてのことなのである。単純な平面を考えても、あるいは第三の次元〔おくゆき〕が他の二つの次元〔縦と横〕と同質的であるような三次元の延長を考えても、明らかに同じ事態に帰着する。深さが、延長量として捉えられるや、それは、産み出された延長の一部をなし、もはや、他の二つの延長量に対するおのれ自身の異質性を即自的に含むということをやめてしまう。》
《なぜなら、わたしたちはもはや、それらのファクターが根源的な〈深さそのもの〉を表現しているということがわからなくなっているからである。この根源的な深さ〔おくゆき〕こそが、第一の次元〔横〕においては左右として繰り広げられ、第二の次元〔縦〕においては高低として繰り広げられ、第三の次元〔派生的な深さ〕においては図と地として繰り広げられるのである。延長は、延長自身の根源〔深さそのもの〕の非対称的な徴表としての諸ファクター、つまり左右、高低、深浅を現前させるのでなければ、現れず、展開させられないのだ。》
《ことに、等質の延長のなかに現れるような地〔背景、基底〕は、「深い」もののひとつの投影である。この深いものだけが、〔シェリング的な〕ウングルントUngrund すなわち無底と言われうる。図と地の法則が妥当して、ひとつの対象が中立的な地の上に、あるいは他の諸対象の地の上に際だつためには、その対象自体がまずはじめに、おのれ自身の〔根源的な〕深さとの関係を維持しているのでなければならないだろう。図と地の関係は、外的で平面的な関係でしかなく、その関係は、諸表面が包み込んでいる深さとその諸表面との内的で容積的な関係を前提としているのである。対象にその陰を与え、対象を陰から浮かびあがらせるこの深さの総合は、もっとも遠い過去を、現在と共存している過去として証示する。》
《延長がもろもろの深さから出現することが可能になるのは、深さそのものが、延長から独立に定義されうる場合にかぎられる。わたしたちは延長の発生を立証しようとしているわけだが、その延長は、延長量〔外延量〕であり、エクステンスム extensum 〔空間の広がり〕であって、言い換えれば、すべてのエクステンシオ extensio 〔強度の広がり〕の目印である。ところが、その根源的深さの方は、たしかにまったき空間であるが、しかしそれは、強度量〔内包量〕としての空間、つまり、純粋なスパティウム spatium 〔空間〕なのである。》
《ところでわたしたちは、感覚あるいは知覚がひとつの存在論的アスペクトをもっているということを知っている。正確に言うなら、感覚あるいは知覚は、それらに固有な諸総合において、〔非経験的な意味で〕感覚されることしか可能でないもの、あるいは知覚されるしか可能でないものに直面しているのである。さて、深さは、その本質からして延長の知覚のなかに巻き込まれているということは明らかである。すなわち、深さについても、様々な距離についても、物の外見的な大きさから判断が下されるわけではなく、反対に、まず深さが、それ自身においてもろもろの距離を包み込んでいて、それらの距離が今度は、外見的な大きさとして繰り広げられ、延長として展開されるのである。また、深さと距離は、そうした巻き込みの状態にあるときには、基本的に感覚の強度に結びつけられているということも明らかである。》
《知覚される質は、強度を前提としているのである。なぜなら、知覚される質は、「分離可能な諸強度のひとつの切片」にかわって、類似という一性格を表現しているにすぎないからであり、その切片の限界内において、ひとつの恒常不変の対象---すなわち、様々な距離を通じておのれの同一性を肯定する、一定の質をもった、対象---が構成されるからである。もろもろの距離を包み込んでいる強度は、延長として繰り広げられ、そして延長はそれらの距離そのものを展開し、外化させ、互いに等質化させるのである。同時に、たとえ感官の媒体を決定しているクワリタス qualitas 〔物理的な質〕としてであれ、あるいは感官と対応してしかじかの対象を特徴づけているクワレ quaia 〔感覚的な質〕としてであれ、とにかく質が、この延長を満たすことになるのである。強度は、〔経験的には〕感覚不可能なものでありながら、同時に感覚されることしか可能でないものである。どうして強度は、その強度を覆っている質や、その強度がそこへと割り振られる延長から独立に、それ自体として感覚されることがあろうか。しかし、感覚作用を引き起こし、感性自体の限界を定めているのは、ほかならぬ強度である以上、どうして強度は「感覚される」もの以外のものであろうか。深さは、知覚不可能でありながら、同時に知覚されるしか可能でないものである(…)。》