2022/11/22

●昨日の日記で引用した『差異と反復』第五章の、引用最後の部分を再度引用する。

強度は、〔経験的には〕感覚不可能なものでありながら、同時に感覚されることしか可能でないものである。どうして強度は、その強度を覆っている質や、その強度がそこへと割り振られる延長から独立に、それ自体として感覚されることがあろうか。しかし、感覚作用を引き起こし、感性自体の限界を定めているのは、ほかならぬ強度である以上、どうして強度は「感覚される」もの以外のものであろうか。深さは、知覚不可能でありながら、同時に知覚されるしか可能でないものである(…)。

昨日引用した部分をざっくり要約すると次のようになるだろう。

(1)差異(強度)は、延長(空間)の中に質として現象するものではないから感覚不可能である。(2)しかし延長(ここでは時間と空間)は、差異(強度)によってこそ創造される(時間と空間と質がまずあって、そのなかに差異が発生するのではなく、差異が先=根本)。(3)差異は、自らによって作り出された延長のなかで取り消される(均質化される)傾向を持つ。(4)(差異の)強度は、自らを取り消そうとする延長のなかで均質化され、質に包まれた状態でしか現れる(感覚可能になる)ことができない。(5)しかし、強度は自らを取り消そうとする延長のなかで「深さ〔おくゆき〕」として表現されうる(あたかも、四次元の射影が、三次元のなかで立体として現れるように?)。(6)だが、たとえば三次元のなかに現れた「深さ〔おくゆき〕」は、縦×横×奥行きというような、見る位置を変えることで相互に交換可能な均質性を持ってしまい、他の二つの次元に対する異質性を失ってしまう。(7)しかし、それでも「深さ〔おくゆき〕」は、延長量(外延量)として測れるものではない深さ、図に対する地(図-地構造がもたらす「深さの感覚」)のようなものとして感覚可能である。《それは、強度量〔内包量〕としての空間、つまり、純粋なスパティウム spatium 〔空間〕なのである》、と。

で、絵画空間というのは、二次元のなかに三次元的な表象を組み立てるということではなく、ここで言われているような「深さ〔おくゆき〕」の感覚を作り出すということではないか、と。広がりではなく、純粋な錯綜体である深さ〔おくゆき〕から派生する》深さの感覚。