●近所を散歩していて、通っていた幼稚園の建物が建て返られようとしているのを知った。建物は今はまだ、リフォームされてはいても、基本的にはぼくが通っていた頃のままで、外観を観るとなかの空間のイメージが蘇った。だけど前庭の部分は、建築作業のためのプレハブが建っていて、遊具などはなくなっている。
かつて幼稚園の庭には、うんてい、ジャングルジム、登り棒があり、ぼくはそれらが好きだった。基本、それらはどれも一人遊びの遊具で、その他にも、近所の神社にあったブランコ、小学生になってからは鉄棒が好きだった。
それは、装置に媒介された身体運動によって平衡感覚に揺さぶりをかけ、空間認識を変化させるものだと言える。重力と平衡感覚の関係に関わる。能動的な運動感覚と受動的な空間認識の間に、ズレ→合致→ズレ→合致……という展開をつくり出し、自分のなかに起こっている感覚の変容(身体-空間の関係の見失いと再認識の連鎖)を楽しむものだ。
それは遊びであって技巧の訓練ではない。技巧化されれば、ズレと合致の連続は、一つの自然な流れとなるが、そうではなく、その都度、ズレたり合致したりすることそのものを確認する(味わう)ことが楽しみだった。だから、出来なくてもダメだが、難なく出来るほどに上手くなってはいけない。上手く出来るようになることが楽しいということではない。ぼく自身の運動神経の鈍さが、この遊びの成立のための一つの条件になっている。
この遊びは自分の感覚のなかでだけ起こっていることで、閉ざされている。例えば球技のように、戦術、駆け引き、フェイントなどといった、他者の意思や意図の不透明性への関わりという要素が入り込まない。
とはいえそれは「心のなか」の問題ではなく、重力のある三次元空間というこの世界の実在のあり様が遊びの基底にある。ここではおそらく、空間の見失いが他者の代理となっている。見失いと再認識とが、「いないいない」と「ばあ」に相当している。
子どもの頃からそんな感じだったのだなあと思った。