2019-01-17

 

東京新聞、1月18日夕刊に、「フィリップス・コレクション展」(三菱一号館美術館)についての美術評が掲載される。最近、東京新聞に掲載された美術表を、ここに再掲する。
●去年の11月2日の夕刊掲載。「オルセー美術館特別企画 ピエール・ボナール展」(国立新美術館)について。


装飾的な初期作品から、南仏の光に開かれた後期に至るまで、ボナールの絵画には激しい対立よりも柔らかな甘さを感じます。しかしそれが、悪い意味での甘さに流れることなく、見る度に視覚を活気づける新鮮さを失わないのは何故でしょうか。
音楽を例に考えてみましょう。ジャズピアニスト、ビル・エヴァンスの演奏する「ワルツ・フォー・デビー」では、冒頭の主題メロディー部分は三拍子で演奏されますが、ピアノソロに入ると、三拍子の一・五泊を一拍とした二拍子に解釈し直され、さらにそれを二つに割った四拍子とする演奏に変わります。しかし三拍子の感覚もそのまま維持され、三拍子に戻る部分もあり、リズムが常に揺れています。
また、一般にポリリズムと言われるリズムでは、例えば一小節を十二に分割し、そこに三連符による四つの拍と四連符による三つのフレーズというような、複数の異なるリズム感を公倍数で共存させます。これらは、奇数拍子であると同時に偶数拍子でもあるような、どちらも許容しつつ、どちらにも解決しない、複雑で浮遊したリズム感を生みます。
ボナールの絵画でも、筆触、色彩、事物の描写、空間(構成)が、それぞれ独自の異なるリズムによって展開されています。何層も重なるぼそっとした筆触による細かな粒立ち、あらゆる物を包み込み溶解するような色彩の性質、親密な手触り感のある事物の描写、鏡や窓、テーブルや幾何学模様により空間が唐突に断ち切られ、異なる空間が強引に接合される構成。これらの要素は、全体としてきれいに調和するというよりは、それぞれが自律的にあり、違和をもちながら相互に作用し合うことで、特権的な要素には解決されないズレを含む、複合的な厚みが生み出されているように見えます。
ボナールは一枚の絵を完成させるのに長い時間をかけました。ピカソはボナールの絵を「優柔不断だ」と言って嫌ったそうですが、早急に解決を求めない、異なった要素が異なったままの状態で持続される制作の時間のなかで、ズレを許容しつつ、全体としてまろやかである共存の形が探られていったのでしょう。
ボナールの絵が新鮮さを失わないのは、甘さのなかに、複数の性質の「異なり」が消されないまま残っているからではないでしょうか。


●去年の12月7日の夕刊掲載。「ブルーノ・ムナーリ 役に立たない機械をつくった男」(世田谷美術館)について。



アメリカ抽象表現主義の画家とほぼ同年代であるムナーリは、第二次大戦後のイタリアで、抽象的な要素を用い「その形や色や動きが、それ以外の何ものも表していない」芸術を目指した。そのような作品は一体何を表現するのか。第一に、ある形や色そのものから生まれる感覚であり、第二に、色や形の配置の仕方によって生まれる、色や形そのものとは違った、より複雑な感覚だ。さらに、その配置が変化することで、そこから生じる感覚も変化していくことが表現される。
抽象的な形が何か特定のものを表現しているのではないとしても、抽象的な要素の配置やその変化によって感覚が移ろっていくことは、自然のなかで風景が移ろっていくことを想起させ、その表現となる。ムナーリが「機械」という言葉に込めているのは、一般的なイメージとは異なり、自然や世界が移ろい変化する様を、言葉を介する手前の感覚として、抽象化して捉えている装置という意味だろう。それは自然と人工物の中間にあって双方を媒介するものだ。
ムナーリにとっては、絵画や彫刻も、絵本や遊具も、形式やスケール、社会的な位置づけが異なるだけで、どれも「機械」のバリエーションであることに変わりないだろう。絵画では、美的な形式を通じて自然のあり様が観取されるが、遊具においては、それを用いて遊ぶという行為を通じて世界が経験される。「機械」は現実そのものではないが、現実のプロトタイプとしてあり、それを通じて現実の経験が見直され、組み直されることが目指される。
重要なのは何が表現されているかというより、その「機械」が感覚を活性化し、感覚の配置の変化へと人を導くかどうかだ、ということになる。そうなると、「機械」を構成する要素が抽象なのか具象なのかはあまり問題ではなくなる。その要素が感覚をどのように刺激し、感覚の再編成を誘発するかかが問題なのだ。
ムナーリは、絵画から遊具や工業デザインまで、手作り的な感覚から最新のテクノロジーや数学への参照まで、多様な文脈を自由に横断するように仕事をした。個々の作品における異なる要素の自由で開放的な関係づけと、キャリア全体を通じた軽やかなジャンル横断的な振る舞いとが、スケールの違いを超えて響き合う。本展そのものを、多数のレイヤー(層)が重なる1つの「機械」とみることもできる。