2019-01-16

●ネット配信で昔観た映画を改めて観直すという機会が増えた。これは、懐かしさに浸るというよりむしろ、「えっ、こんなだったのか」という風に記憶を更新される感じの方が強い経験となることが多い。一体どこを観ていたのだと、過去の自分を信用できなくなる。そして、懐古というのは、甘い感傷というよりむしろ、痛さをともなった苛烈なものだとも感じる。
映画はフィクションとして構築されているが、そこには、構築されたフィクションよりもずっと多くの「過去の現実」が刻まれていて、そして、それを観ることには、「そこにはもう行くことが出来ない」という強い痛さがともなう。そこに映っているのは、あきらかに「現在」とは違ったありかたをしている「どこか」だ。この感じは、その作品が「どのような作品であるのか(出来、不出来とか)」ということとはすこしずれたところで生じる。
(「過去の現実」とは、必ずしも、実写映画だから過去の人物や風景が映っているということだけではない。たとえばそれは、現在とは表現のコードや慣習が異なっているという感じとして現れる。ある時代には紋切り型として---特に意識することなく---すんなり受け入れられていたであろう表現の形が、今観ると、違和感として立ち上がってくるという時、もはや前提とされなくなってしまった、古くなった紋切り型として---そのような紋切り型が生きていた時代として---「過去の現実」が浮かび上がる。)
●U-NEXTで『さびしんぼう』(大林宣彦)を観た。1985年公開の映画。高校生の頃に観た時には、ひどく甘くて感傷が過多であるようなマザコン映画だと感じたのだが、とてもしっかりした映画なので驚いた。
(尾道という土地の撮り方も、尾道三部作のなかでもっとも格好いいのではないか。)
現在の息子の恋愛の話と、過去の母の恋愛の話とが、反転的に重なり会っているというか、むしろ、息子を主人公にしながらも、母の方の物語が語られているというつくりになっている。
息子は、恋愛対象の向こう側に母の面影をみているが、母は、息子の向こう側に過去の恋愛対象をみている。「さびしんぼう」という謎の少女は、母が、16歳の息子の向こう側にみている(当時16歳だった)恋愛対象から、さらに投影されて生まれた16歳の自分の姿だ。過去の恋愛対象と息子とが同年齢となって重なること(恋愛対象=息子となること)で、彼に恋愛感情を抱いていた16歳の自分が、現在の自分から切り離されて形象化される。彼(恋愛対象=息子)と会うためには、自分は16歳でなければならないから。
一方、現在16歳である息子は、別の恋愛対象をもつ。しかし、「息子の現在の恋愛対象(百合子)}と、「母が息子と過去の恋愛対象を同一視することで生まれた分身(さびしんぼう)」は、同じ女優(富田靖子)によって演じられる。《母、『さびしんぼう、》百合子』というように、「さびしんぼう」を媒介として、母と百合子との位置が交換可能となる。さらに、母の恋愛対象と百合子とが、ショパンの「別れの歌」によって重なり合い、交換可能となる。
このことによって、過去の母親の恋愛と、現在の息子の恋愛とが、右手と左手のように時間を超えて対称形となる。母の(かつての)恋愛対象は息子でもあり(年齢の同一性)、息子の(現在の)恋愛対象は母でもある(イメージの同一性)。そして恋愛対象のどちらもがショパンを弾くことで、二つの関係は異なる時間を串刺しにして重なる。
(だからこの映画で、母と息子は、あくまで現実を超えた抽象的で形式的なレベルで、近親愛的な関係となる。)
この交換可能な関係の重なりは、息子とかつての恋愛対象とが16歳という年齢の同一性によって重なり、この重なりが「16歳の自分(母)」という媒介を自分の外に生むことによって形作られている。だから、息子が16歳でなくなれば、二つの関係を媒介している「さびしんぼう」も消えて、母と息子という二つの恋愛感情の対称的な重なりも崩れることになる。