●新宿のphotographers' gallery + IKAZUCHIで、大友真志写真展「Northern Lights - 1 母と姉」、青山のboid+で、金村修「ダンテロブスター」。どちらもよかったけど、特に大友真志に惹かれた。人はイメージのなかの「何を」観て、「何に」魅了されるのだろうか。それは、凝視したり精査したりすることで把捉できるものではなく、きわめて捉えどころがないものなのだが、しかし、その「捉えどころのなさ」そのものに魅了されているのではなく、確実に「何か」が(しかも、すごく多くの「何か」たちが)捉えられてはいるはずのだ。フリードによるバルト論が想起されるが、しかしフリードの言葉もバルトの言葉も、決定的なところでその「何か」を取り逃がしている、ということを、大友真志の作品たちは、静かに、しかし強く主張しているようにもみえる。言語も、観ることそのものさえも、この作品の前では歯が立たず、ただその前で手持ち無沙汰に佇むしかない。
●ミシェル・ゴンドリー『エターナル・サンシャイン』をDVDで。17日の平倉圭さんのレクチャーの最後の方で、ちらっとミシェル・ゴンドリーのミュージック・クリップを観せてもらって(カイリー・ミノーグと、あとは多分ケミカル・ブラザースだったと思う)、その何とも言えない(脳のなかに閉じこめられるかのような)気持ち悪い(けどクセになりそうな)感じが気になっていて、ツタヤでビョークのクリップなんかも借りてきて観てみた。ミシェル・ゴンドリーの映画といえば、ぼくはいままで『ブロック・パーティー』しか観たことがなかったので(これは映画としてどうこう言うような映画ではないので)、どんな映画をつくるのか、ちょっと覗いてみようという感じで観た。
すごく考えてつくられている恋愛映画、というか、優秀なオタクのつくった映画という感じ。ミュージック・クリップで感じた、得体のしれない気持ち悪い感じが、きっちりと練られた長編映画では理路整然と説明されてしまった、というような物足りなさはあるけど。いまや、恋愛映画というか、「ロマンチックなお話」というのは、ここまで複雑なことをやらなければ成り立たないのだなあ、と思った。ロマンチックな場面というのを「現在時制」で成立させるのはとても困難で、だからそれは「記憶」としてあらわさざるを得ない。つまり、「記憶が想起されている現在」こそが、甘美で、かつ痛切なものとなるわけだ。その「記憶が想起されている(記憶が再生されている)現在」を、物語の仕掛けとしてどのように組み立てるのか、ということがこの映画の中心的な問題となる。(そのために主人公はベッドの上で眠りつづけなければならなくなる。)凍った川の上で二人で寝そべって星を見ているというだけでは、その場面が甘美なものとはならず、それが反復され思い出される時、それも、その記憶そのものが消えてしまうかもしれないという危機に瀕している状態で思い出されることによって、その場面がかけがえなく貴重なものとなる。(反復の一回性(?)とでもいうべきものが、ある場面をかけがえのないものにする。)そのために、「脳のなかに閉じこもる」かのような設定が必要となっている。ただ、もっと徹底して「閉じられた」感じの映画なのかと思ったら、記憶を消す方の側の(脳の外の)人たちの恋愛事情なども織り込まれて、過度にマニアックになってしまうことが周到に避けられていた。(その辺りのバランスの良さも、ミュージック・クリップの印象とは違っていた。)
途中のちょっとした違和感が伏線となる見事な時間的なトリックがあって、その後、このまますんなり「めでたし、めでたし」になるのかと思うともう一波乱(過去の回帰、あるいは呪縛の発現)があり、この結構深刻な波乱(回帰、呪縛)が、「いいさ(O.K)」という肯定の一言でふわっと溶けてゆくところは凄くいいと思った。(同じことを繰り返すことになったとしても、それは決して「同じ」ではないのだから、それでも「いいさ(O.K)」ということなのだ。)この場面が、この映画で本当に良いと思えた唯一の場面だけど、この場面があるだけで、この映画が忘れ難いものとなった。(人を、循環する構造(=呪い)の外へと導き出すのは、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』のラストみたいな責任と決断ではなくて、「それはそれでいいさ」「それでもいいんじゃねえ」みたいな、ちょっとした肯定の一言なのだった。)