08/03/19

●昨日と一昨日の二日で、約55枚の原稿の直しと、約11枚の原稿を書いて、その前の日は不安と緊張の座談会で、テンションの高い日が三日つづいたので、今日はまる一日ひたすらぼけっとしていた。「3の倍数と3のつく数字のときにアホになります」(世界のナベアツ)の、アホになった時の顔のような感じで、一日過ごした。
●『主題歌』(柴崎友香)に載っている「六十の半分」はすごく鮮やかな小説で、ちょっと上手過ぎるんじゃないかと思うくらいだ。例えば「1」の部分では、カナダへ移住するために空港にいる(しかし国内線の空港らしい)香奈と、空港まで香奈に呼び出された中学時代の友人の良太が、そこでばったりと、結婚式に出るために帰省してきた同じく同級生である敬一に会う(彼らは皆三十歳である)、という場面が描かれる。この作家が空港という開放的な空間を描けばそれだけで鮮やかになるのは当然なのだが、それだけではない。
この場面は三人称で書かれていて、時折良太や敬一の視点も混じるのだが、基本的には香奈が中心に居て、香奈による一人称として書き直されたとしても、それほど大きな印象の違いは無いように思われる。しかしただ一ヶ所、この場面が三人称で描かれなければならなかった理由であるように感じられる一文がある。(良太は赤ん坊を連れていて、敬一はその子をあやしている。香奈はベンチにすわっている。)
《泣きやまない子どもをあやすのに飽きた敬一が立ち上がると香奈のつむじが見え、香奈の背が低かったことを思い出した。》
前後の部分ももっと引用しなれば、この部分の視点の転換の鮮やかさは分からないのだが、ここは、ただ敬一への視点の転換が鮮やかであるということだけではない。敬一が立ち上がって香奈のつむじが見えたというだけならば、それはたんにカット割りが鮮やかだというだけなのだが、さらに、つむじが見えたことが、香奈が背が低かったという記憶を喚起するところが凄いのだ。つまりこれは、敬一がよく香奈の隣りに立ってつむじを見ていたという過去があることを示しているし、その場面やその時間の重なりさえも想起させる。たったこれだけのことで、今まで空間的なひろがりとその中での動きの鮮やかさを感じていた読者が、一気に時間や記憶までをも巻き込まれる感じになる。たんに中学時代の友人と説明されていた人物たちの関係が、リアルに「中学時代を共有した人たち」だと感じられるようになる。世界が一気に膨らみと厚みを増す。
この後、香奈は敬一との会話で、《中学生の時の自分の感じが一瞬戻ってきたように》思うのだが、この感覚がリアルなのは、前に引用した敬一による記憶の喚起が描かれているからなのだ。空間のひろがりと時間の厚みとが同時にたちあがるような、こういう場面を、こんなに簡潔に書ける小説家はすごいと思う。