●お知らせ。明日、7月8日の東京新聞、夕刊に、銀座のメゾンエルメスでやっている「奥村雄樹による高橋尚愛」展についての美術評が掲載される予定です。
●ここ数日、寝る前の三十分くらいで『来るべき内部観測』(松野孝一郎)の第一章を何度も読んでいる。とても短い章だが、一読しただけではよく理解できず、考えながら何度も行き来する。
●まず、一つのパラドクスが提示される。
(1)金曜に、教師が生徒に言う。来週の月曜か火曜の一限に試験を行う。ただし、いつ試験を行うかは当日まで知らされない。
(2)生徒による反論。試験は火曜ではあり得ない。月曜に試験が行われなかった時点で、試験は火曜だとわかってしまうから、当日まで知らされないという前提に反する。つまり試験は月曜でしかあり得ない。そして、この推論が現時点(金曜)で成り立ってしまうので、これもまた当日まで知らされないという前提に反する。よって、いずれの日にも試験は実施されない。
(3)にもかかわらず、教師は月曜に試験を実施した。
●ここでの教師の、「月曜か火曜のいずれかに試験を行う」かつ、「この宣言を公理として、試験日を特定することはできない」という宣言は、「すべてのクレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った」と同様の自己参照のパラドクスになり破綻している、というのが生徒の主張であろう。しかし、この自己参照の論理には「事前」と「事後」との区別がない、あるいは、「自己」と、「既に自己を参照した自己」との区別を認めていない、と書かれる。自己と、自己を参照した自己とでは、異なる時制(事前/事後)にいるのだ、と。
《(…)決定をともなう行為は、決定以前と以後との識別を必ずともなう。決定以前には、いつ決定行為がなされるかは不明だが、決定以後には、それはすでに明らかである。その意志決定がいつなされるかを、現在形のみで叙述することはできない。それをあえて現在形に限定して試みたのが生徒の立論である。》
《生徒による立論があたかも成り立っているかのように見えるのは、それぞれ日付が異なる複数の可能世界でなされる推論を互いに同期させ、整合させて一つの可能世界に達することができる、という仮定に立脚しているためである。しかし、前の週の金曜日に次の週の月曜日に向けてなされる推論「月曜に試験は実施されない」の前提に、翌火曜日に向けて月曜日になされる推論の結果、「月曜日に試験は実施される」を組み入れることによって、同一対象を同時に肯定かつ否定してはならない、という矛盾の指摘は、生徒の立論の枠内にあっては自明ではない。》
《同一対象を同時に肯定かつ否定してはならないのは同じ状況の下においてであるが、前の週の金曜日に想定される可能世界と、翌月曜日に想定される可能世界は同じ状況下で想定されてはいない。月曜日の可能世界では、前の週の金曜日の可能性世界に比べて、すでに何かが完了しているはずである。》
●時制をともなわない現在形によって立論する外部観測者としての生徒とは異なり、時制(事前/事後)の内にある内部観測体として行為する教師は、「完了形」の内にあるのだ、と。
《(…)事後の変更、すでになされたことをなかったことにするのを厳禁する完了形にあっては、当然のことながら矛盾律が適用される。同一条件下でなされる判断が同時に肯定かつ否定されることはない、とする矛盾律が適応される相手は、もちろん行為を担う内部観測者である。》
《外部観測者である論理学者は、任意の命題を対象として、それが矛盾律に抵触するか否かを検証することができる。そこで仮にある命題が矛盾律に抵触するものとして葬り去られても、論理学者が同じ憂き目の遭うことはない。(…)生徒が、教師による試験宣告はそれに付随する自己参照によって矛盾律に抵触する、と断罪しても、生徒自身が傷つくことはない。》
《危うくなるのは、それこそ教師のほうである。自分の弁護に失敗するなら、教師は職を失うことにもなりかねない。その教師が自己を弁護する上で頼りにしているのが、同じ矛盾律である。その矛盾律の運用の仕方が、両者の間で異なる。》
《教師は、矛盾が完了形に凍結されることを回避し続けることで、わが身の保全をはかる。試験を予告した金曜日に生徒からの反論に接した教師は、試験の実施日を翌火曜日にすると、生徒からの非難をまともに受けなければならない羽目に陥るのを知り、遅滞することなく、かつひそかに試験日を月曜日に設定し直すことができる。》
●ここでは、二つの異なる一人称(私)が示される。三人称現在形によって参照され、保証された、時制ない、外部観測者としての「わたし」(これがデカルト的「私」とされる)と、一人称単数形による、完了形-時制(事前/事後)のうちにある行為体である、内部観測者としての「わたし」だ。
《三人称単数形で判断を形成する生徒の意に反して、抜き打ち試験を実施することのできた教師は、内部観測者として、一人称単数形を基盤とする行為体である。その一人称単数の行為を可能とする今現在が時制の変換を司る。進行形による完了形の絶えざる更改がそれである。完了形が特異であることは、それが進行形を引き寄せるという親和性を発揮するところに認められる。一人称単数形が参照する「今」は、絶えず完了形を更新する進行形の運動を担う。それに対して、三人称現在形は時制の変更を認めず、変わることのない現在という時制に忠実であることによって、そこでの定立に真・偽の決定性まで付与できるようにする。》
●完了形は常に進行形を引き寄せ、進行形は絶えず完了形を更新する。このようにして、事前/事後が生じ、過去・現在・未来という時制が成立する、と。
われわれが言葉を用いてある「決定性」に到達するには二つのやり方がある。一つは三人称現在形に由来するもので、これは通常、命題の証明(計算)可能性によって実現される。もう一つは一人称完了形に由来するもので、これは一人称行為体が「自らの存続」を賭けて行う決定である、と。そしてこの二つは対等ではない。三人称現在形に由来する真偽の決定性によってでは、一人称単数形における「完了形の設定」に由来する決定性を代替することはできないのだ、と。
《三人称現在形は時制の変更を認めないが、時制の変更があっても三人称現在形が成り立つ余地は、尽きることなく温存されている。それを積極的に活用したのが、生徒に対峙した教師である。月曜日に教師が問題用紙を抱えて教室に入ってくるのを見て、初めて教師の決意のほどを知ることになった生徒は、その事態を三人称現在形で間違いなく参照できるが、それは教師が試験を月曜日に実施することをひそかに決意した、という完了形をふまえてのことである。》
●物理学には「時間(過去・現在・未来という「時制」、あるいは、完了形を進行形と結びつける「今」)」が存在しない。これはおそらく、ベルクソンによるアインシュタインへの批判ともつながっている話だろう。松野孝一郎は物理学者として、この問題を扱おうとしているようにみえる。
《理論科学が容認する命題のうちに現れる時間は、時制の変化をともなわない。物理における運動法則のうちに現れる時間はすべて、時制の変化をともなわない時間である。過去・現在・未来の時制の差異を容認すると、現在形で草される命題の決定性が損なわれてしまうからである。必然の法則性をともなうことなく運動法則の必然性を破る時間が登場することを皆無にすることができなくなってしまう。三人称現在形は過去・現在・未来を生み出さない。》
(「必然の法則性をともなうことなく運動法則の必然性を破る時間が登場する」という言い方はメイヤスーっぽくもある)
●「理論科学者」、「経験科学者」、そして経験科学の対象としての「世界のなかにある行為体」の違いが次のように語られる。ここで重要なのは、三人称現在形の理論科学者と、一人称単数形である行為体との中間にある「経験科学者」の位置だろう。
《理論科学は、ある公理系を前提とするなら、そこから帰納され、証明される定理体系の産出を可能にする。ここでの制約が、公理系を記述する際に採用される基本述語としての名辞である。基本述語は公理系が成り立つための前提であって、公理系によって証明される対象ではない。そのため、基本述語を支えるのは、独立して自存する名辞そのものである。好むと好まざるとにかかわらず、理論科学は唯名論の上に立つ。》
《(…)経験科学が受け入れる記述は、根幹において理論科学の記述とは異なる。ある実験事実を記述する際、やむをえず新しい用語を導入しなければならない事態に至ったとき、そこで行われるのは一連の運動や行為の対象化、動詞の名詞化である。例えば、経験科学を先導した熱力学において「温度」という用語が定着してきたのは、「温かさを経験する」という行為に名詞をあてがうことが受け入れられてきたからである。ここで、行為を担う動詞の名詞化において決定性を発揮したのは実験科学者である。》
《しかし、経験世界で決定性を行使するのは、実験科学者にかぎられているわけではない。経験世界のうちに現れる、ありとあらゆる行為体が、この決定性を発揮する。(…)経験科学者が発見した新たな名称は、経験世界に出現可能となっていた行為体がすでに遂行し、経験科学者によって動詞の名詞化とみなされるに至った結果を参照している。根底にあるのは、行為体における、一人称単数形での完了形に由来する決定性である。》
●序章には、次のようなことも書かれていた。
《内部観測が特異なのは、それが一人称と三人称の間を仲立ちするところにおいてである。そのため、内部観測は三人称で参照される表象やシンボルではなく、あくまでも一方で一人称に、他方で三人称に接する指標であるにとどまる。その仲立ちを実践する行為体が、内部観測体である。物体としての内部観測体は、抽象を介して三人称で参照される対象と化することを可能にしながら、内部観測を実践することにおいては、あくまでも一人称行為体でしかない。これは、すでに無効になってしまった物活論の蘇生を意図しているのではない。三人称で参照されるかぎりでの、抽象を受けてしまった内部観測体は、まぎれもなく物体として対象化された、ある構造をともなう。その三人称に位置づけられる構造の成り立ちが、外部観測者のなじみとする表象や記述のカテゴリーとしてではなく、一人称に基づく行為に由来する、というねじれを避けがたくする。》