⚫︎『殺しの烙印』(鈴木清順)を久々に観た。今回初めて気づいたのだけど、これだけ突飛なことを色々やりまくって、この映画を作ったことがきっかけで日活を解雇されたという映画なのだが、ほぼピッタリ30分をひとまとまりにした三部形式というプログラムピクチャーの基本みたいな時間配分はきっちりと踏襲されている。
最初の30分は、宍戸錠が演じる殺し屋No.3の仕事ぶりと、仕事の失敗まで(銃口に蝶がとまったことで微妙に的を外す)。最初のパートが最も「痛快アクション」みたいになっている。次の30分が、殺しの仕事を失敗した宍戸錠が、妻や組織の殺し屋たちから命を狙われ、それに抵抗するパート。最初のパートのアクションからトーンが変わり、宍戸城の切迫感と焦燥感が前面に出てきて(プロの殺し屋として酒と妻以外の女を禁欲していたが、酒と女に溺れ始める)、濃密に停滞した時間が流れる。そして、自身も傷だらけになりながらなんとかかんとか組織からの刺客をあらかた倒して、「俺は生き延びたぞ」となったところで、最後の30分のパートに移行する。
ここで、今まで「誰もその正体を知らない」と言われてきた殺し屋ランキングNo.1の男が登場して、宍戸城を殺すと宣言する。この殺し屋No.1は、極端な不可視と極端な可視(現前)との間を行き来する。二つ目のパートの濃密に停滞する時間から、突き抜けた、ほとんど不条理喜劇のような展開になる。
この三つのパートが、ほぼピッタリ30分ずつで移り変わっていく展開だ。
それで思い出すのが北野武の『ソナチネ』で、この映画もほぼピッタリ30分ずつの三部構成になっていて、タイトルの『ソナチネ』というのも、この形式から来ていると思われる。