2022/07/08

●『エロス+虐殺』(吉田喜重)。この映画は、空虚を抱えた青年と、伊藤野枝にあこがれ、売春したりしている女子大生のペアによって成り立つ現代パートと、大杉栄と三人の女たちとでもいうべき大正パートの二つが交互にあらわれる構成になっている。そして、正直、現代パート(1969年)の方は、今観るとちょっときつい。古くなってしまった前衛の、けっこう痛い姿とさえ感じられる。しかし、大正パートの方は、とても充実している。特に日本家屋を「題材」とした吉田的モンタージュがものすごいことになっている。といっても、現代と大正の二つのパートをきっぱりと分けるというわけにもいかない(大正時代の人物が、現在---1969年---の風景のなかに存在している映画だ)。だから、この230分ちかい長い映画を、今、きちんと観ることはけっこう難しい。

(この映画は、なんといっても大杉栄と女性たちとの関係が主軸としてあると思うのだが、現代パートが、それとどう関係しているのか、いまひとつよくわからない。)

大杉栄の映画といっても、彼の思想(革命、アナーキズム、自由恋愛)が主軸にあるというのでもないように思う。大杉栄という非常に女性にモテる存在を媒介として、登場人物たちが、人間関係のなかでの「主体の位置」を取り合う映画ではないかと思う(その意味では『告白的女優論』とかわらない)。とはいえ、この物語が単純な男女間の情痴話であることをこえていくことになるのは、この映画における大杉栄の特異な人物像によるのだと思うが。

大杉栄は、徹底して受動的であり、非マッチョ的であり、不能的である。三人もの女性と関係があるのに不能的というのは変だが、要するに彼はこの映画のなかでほとんど何もしない、ということだ。彼のするほとんど唯一の能動的行為は、伊藤野枝に嫉妬する正岡逸子(神近市子)との関係を拒絶することくらいだろう。

大杉栄は、今でいうポリアモリーに近い自由恋愛という思想をもち、三人の女性と付き合っている。彼は、女性の側も納得しているというが、必ずしもそうではないようだ。伊藤野枝以外の人は、彼に惚れてしまったのでその考えを(しぶしぶ)受け入れるしかないという感じだ。強い性的魅力のある大杉は、何もしなくても関係のなかで主体の位置にいるのだ。たとえば正岡逸子は、大杉に妻がいることに不服だが、無収入の彼に対して、「大杉夫妻」を共に自分が経済的に支えているということによって自らの優位性(主体性)を確保し、それと引き換えのようにして(立場的に)愛人という二次的な位置にいることを受け入れている。

だがそこに、第三の女性として伊藤野枝が現れる。彼女の出現によって刺激を受けた大杉は、何かしらの能動性を発揮して経済的な基盤を確保し(とはいえ、映画ではこの能動的部分はまったく描かれず、映画のなかの大杉は終始一貫何もしない)、夫のもとを去り、仕事も失ってお金のない伊藤野枝をサポートし、共に生活するようになる。そうなると、正岡は経済による優位という主体性をはく奪されるので、たんに伊藤に嫉妬するだけの女になる。そこで正岡は、自らの手で(自らの意思として能動的に)大杉を殺すことで、再び関係のなかの主体の位置を回復しようと考える(これが「日陰茶屋事件」として描かれる)。

ここで映画は二つに分裂する。一方の大杉は、正岡が自分の首を切ろうとする(既に切られているが致命傷ではない)ことに抵抗し、もう一方の大杉は無抵抗でそれを受け入れる。しかし、無抵抗で受け入れられた世界の正岡は、大杉の首に刃を立てることを躊躇する。ここで大杉を殺しても、それは能動的な行為とは言えず、大杉が自ら望んだ死を、正岡が手段となってもたらしたことになってしまうから。そこへなぜか(一度帰ったはずの)伊藤があらわれて、正岡の代わりに彼女が大杉の首を切ることになる(だから、どちらの世界でも大杉は---史実通りに---首を切られる)。

では、伊藤はなぜ大杉を切るのか。伊藤は、大杉と出会うことで「大杉が自分のなかを突き抜け、それによって自分は傷つけられ、そして同時に自由を知ったのだ」と言う。しかしそれは「私は大杉に捉えられてしまった」ということでもあるのだ、と。だから自由であるため、今度は、「私が大杉のなかを突き抜ける」ことで対等にならなければならない。そのために大杉を(一種の象徴的行為として)切る。これもまた、正岡とは別の意味で、伊藤が関係のなかの主体の位置を確保しようとしてする行為といえるだろう。

(正岡の行為が、三角関係---正確には四角だが---に捉われたものであるのに対し、伊藤の行為は他の女たちとは関係なく、大杉との二者関係のなかで行われるものだ。)

この、二重化された「日陰茶屋事件」がこの映画のクライマックスであり、このように史実を「主体の位置の取り合い」として想像的に二重化することが、この作品の創造性だと、とりあえず言える。

とはいえ、この映画でなんといっても一番すごいのは、構図とモンタージュによる特異な映画的時空の創造だろう。特に、クライマックスの日陰茶屋事件の起こる旅館の空間は圧倒的だし、伊藤野枝の夫である辻潤が、伊藤と双子のように育った女と浮気するところを伊藤が見てしまう場面から、その後の伊藤と辻の対話へとつづく場面での時空の設計もちょっととんでもない。現代パートで、女性が、(死にたがっている友人のために)売春のあっせんをしたことを刑事に報告する喫茶店の場面も、こんな撮り方ある、とひっくりかえりそうになった。

構図の選択だけだったら、妙な構図を探すことならぼくにもできるかもしれないが、この複雑なモンタージュを、いったいどうやって組み立てているのだろうか。

大島渚が、72年の『夏の妹』を最後に、いわゆる「前衛的手法」を採用しなくなったのと同様に、吉田喜重も、73年の『戒厳令』を最後に、ここまで特異な構図とモンタージュは使わなくなる(マイルドになるだけで基本は一緒、とも言えるが)。このあたりで、大きな時代の変化があったということか。