ポレポレ東中野に、堀禎一特集の最後となる『Making of Spinning BOX 34DAYS』の上映を観に行った。堀さんのお通夜から流れてきた喪服姿の人が沢山いるなかで、堀さんに近い人でさえも「堀がこんな作品をつくっていたなんて知らなかった」というようなレアな映画が特集の最後として上映されるという不思議な状況。この映画はドキュメンタリーなのだが、その撮影対象の一人であるダンサーの中河内雅貴さんがいたり、『夏の娘たち〜ひめごと〜』に出演している人たちが喪服姿でいたりして、そういう人たちと上映後の映画館の前で、近くのコンビニで買ったビールを飲みながらたむろしているというのも不思議な状況。
●『Making of Spinning BOX 34DAYS』は、タイトルの通り、中河内雅貴馬場徹の二人を中心としたダンスパフォーマンス「Spinning BOX」ができるまでの34日間を追ったメイキング。
リハーサルで同じ(まったく同じではないが)動きが繰り返されることと、繰り返される複数の動きを一つの繋がりとしてモンタージュすること。モンタージュは嘘をつく。この動き(このカット)とあの動き(あのカット)とは本当は繋がっていないのに、あたかも繋がっているかのように繋げる。繋がっていない(反復)ものを、繋がっている(連続)ものとして繋げる。それを繫げるのは、たんに編集の技術なのか、あるいは被写体の同一性(ダンサーのもつ動きの質やリズム)なのか。この二者は排他的ではなく、後者を捉えるためにこそ前者が必要とされる。あるいは逆に、「この映画」が独自の質やリズムを獲得するために、何度も反復的に現われるダンサーの動きの質やリズムが要請される。
この映画の関心は少しずつ変化してゆく。当初は、ダンサーが本業ではない馬場徹のダンスへの悪戦苦闘や上達の過程が追われ、それが次第に中河内雅貴というダンサーのありように焦点が移ってゆく。さらに、二人の関係、「Spinning BOX」という作品の内容、完成までの産みの苦しみなどが示される。最初はダンスの練習だったものが、次第に(断片的ではあるが)作品の内容に踏み込んでいき、ついには本番をむかえる。映画全体のこのような構成は基本的にはオーソドックスであり、時系列に概ね沿っていると思われる。しかし細かくみていけば、個々のカットや場面の前後関係は明確ではない。タイトルにはっきり「34DAYS」と記されているのに、映画で観ている「今」がその何日目なのか分からないし、だいたいどこらへんなのかさえも、よく分からない。それは映画のなかで進んでいく時間であって、カレンダーと紐づけられない。
映画の前半は、繋がっていないカットを繋げてつくり出される「映画に撮られたダンス(ダンスのリハーサル)」の連続/非連続のありようの凄さに圧倒されるのだけど、後半になると、作品自身のもつ興味の焦点が、ダンスそのものから、虚構のもつ反復構造のようなものに移っていって、ひたすら執拗に、これでもかと、様々なやり方で反復(あるいは、様々な様相における変奏)が仕掛けられていて、この徹底した反復のしつこさ(粘り強さ)にも、ダンスから感じた感覚的な強さとはまた別の強さを感じ、圧倒された。映画の最後の方は、まるで『君の名は。』の最後の方のようにしつこかった。