堀禎一のピンクの作品はすべてDMMで観られる。成人映画ではなくR-15になってる。
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『マル秘配達人 おんな届けます』がデビュー作の『宙ぶらりん』(2003年)で、『不倫団地 かなしいイロやねん』が『草叢』(2005年)で、『団地妻 ダブル失神』が『笑い虫』(2007年)で、『若い肌の火照り』が『東京のバスガール』(2008年)。
●で、デビュー作『宙ぶらりん』を観た。とても良い。観たのは二度目。デリヘルの女の子が客から逃げて、全裸で自動車が停めてあるところまで走る場面は記憶にあった。
堀禎一がピンクの枠でつくる映画はあくまでピンク映画で、堀禎一はたとえば「ピンク映画の革命児(あるいは反逆児)」とかではない。それは、ピンクというジャンルの形式を外側から意識しているというより、ピンク映画というインフラの上で自分が映画をつくっていることを意識しているということだと思う。かつての映画は映画会社の撮影所という制度のなかでつくられ、それは制約であると同時に、そこに蓄積された財産を使えるということでもあった。そこには、映画をコンスタントに制作する体制が出来ており、ベテランのスタッフがいたり、大部屋の俳優がいたりした。
かつての撮影所に比べればかなり貧しいものだと想像できるが、それでもピンク映画という制度は今でも存在していて、その体制の元で、コンスタントに映画がつくられ、そして配給されている。一定の制作費があり、それを使って映画をつくる技術者たちのコミュニティのようなものがあり、つくられた映画がその制作費を回収するある程度安定的なシステムがある(この体制が、いつまでもつのかは分からないとしても)。これは、映画一本ごとにプロデューサーが資金を集め、スタッフを集める、という形でつくられる、というような映画(現在では多くの映画がこっち側だろう)とはかなり異なっている。
ピンク映画というインフラがあって、そのなかで自分は監督という立場でそこに介入する。このような意識で映画をつくることは、現在ではかなり希なことなのではないか。そして、そのようにしてしかつくれないような映画を、堀禎一はピンクという枠では追求していたのではないかと思った。ラノベやマンガを原作とした仕事や、インデペンデントな仕事としてのドキュメンタリーとは、明確に違う意識があったのではないか。たとえば、ピンクの枠でつくられた四本の作品はどれもフィルムで撮影されているが、それ以外の作品はすべてデジタルだ。「フィルムで撮影できる」ということも、ピンク映画というインフラの一部だ(ただ現在ではもう、ピンクもフィルムで撮られてはいないが)。
ピンク映画というインフラを意識するということは、ピンク映画というジャンルを、その形式を意識するということとは微妙に違う。それは、制作の条件を意識し、尊重するということで、いかにもピンク映画的な映画をつくろうとすること(ピンクへのオマージュ、ピンクへのノスタルジー)とは異なる。今ある「この条件」を、「ここにいる人々がもっているもの」を、最も良く生かすためにはどうすればいいのか、が探られているであって「ピンク映画」という看板が問題なのではないのだと思う。
結果として、いかにもピンク映画的な映画なのだけど、しかしそれは、だからいいとか、だから悪いとかではなく、それは必然的にそうであるということだと思う。そして、ピンク映画的であるとか、ないとかと関係なく、映画としてすごくいい。いや、ちがうか。(1)いかにもピンク映画的であり、(2)とてもいい映画なのだが、この(1)と(2)との関係は、「だから」で結ばれるものではなく、と言って、無関係ということでもない。ピンク映画というインフラを意識し、それを最大限に尊重することによってつくられることによって、その結果として(1)となり、(2)となる。だから、(1)と(2)は、直接的な関係はないが、共通の原因をもつという関係にある、ということだろうか。
(偉そうに書いているが、ぼくはピンク映画をたくさん観ている良い観客ということではまったくなく、「にわか」なわけだけど。)
ただ、そのことが堀禎一という監督の(ピンクの)作品を近寄り難い感じにしているともいえる。すばらしいのだけど、すごく地味というか、そのすばらしさに気づくためには、少し耳を澄ましたり、目を凝らしたりする必要がある。一度気づいてしまえば、すばらしさは向こうから押し寄せてくるのだが。