東中野まで『夏の娘たち〜ひめごと〜』を観に行く余裕がない。『東京のバスガール』(堀禎一)を家でDVDで観た。この映画の発展形が『夏の娘たち』ということになるのだろうか。
何か事件が起こるというより、ある人間関係の提示(描出)と、その展開(時間発展)がある、という感じ。いや、展開という展開があるというのではなく、ある配置(人と人との関係、人と空間の関係)があり、その配置が徐々に明らかにされることが観客の認識に時間発展をもたらす。映画全体として、関係が生みだす一つの絵柄と、絵柄に漲る力学的なテンションがある。そして、テンションによる関係の揺らぎがあり、テンションに耐えきれなくなった関係のある部分が、パキッと折れるように変化する。この変化が映画自体の時間展開ということになる。
夫を亡くしたばかりの未亡人と、未亡人と同じ年齢の夫の息子(夫の連れ子)が同じ家に住んでいて、二人には性的関係がある。これが一つ目に示される関係だ。そして、息子には彼女がいて、その彼女は、息子(彼氏)が同居している「母」が、息子(彼氏)と同じ歳の義母だということを知らない。勿論、二人に性的関係があることを知らない。これが、示される二つ目の関係だ。さらに、未亡人は、亡くなった夫の兄(兄夫婦)から、亡くなった夫の弟との再婚を勧められて(圧をかけられて)いる。
このように、関係が一つ一つ提示され、その度に全体の図柄が複雑になっていき、観客の認識が動いてゆく。関係の複雑さが主人公の未亡人の立ち位置の難しさを示し、その感情の複雑さを彼女に付与する。しかし映画そのものは、そのような複雑であるはずの感情を表現するのではなく、一つ一つの出来事が明確に描写され、未亡人は、ある種の単調さにおいて存在が示されている。
関係の複雑さがあり、人物の単純さ(明快さ)があり、描写の繊細さや強さがある。
複雑なのは心理ではなく関係であり、繊細なのは感情ではなく描写であろう。しかし、これはたんに反心理主義というわけではないと思う。複雑な関係のなかに置かれ、繊細な描写によって提示される明快な人物の、その背後に、その関係にも描写にも還元されない「こころ」のようなものの存在を、観客はどうしたって感じ取らないではいられない。それは、心理主義的に描出されるものとは違った形の「こころ」だ。その「こころ」は、人物がもつこころというより、関係が生むこころであり、その関係が生じている空間や時間の配置によって生まれるこころであるようだ。しかしそうだとしても、その「こころ」は、人物にランディングサイトする。関係や時空が生む「こころ」を、人物が担う。
(関係の複雑さは、複数の三角関係の絡み合いを含んでいる。未亡人と息子と息子の彼女との関係、未亡人とその元彼と元彼と今つきあっている未亡人の友人の関係、未亡人と息子と未亡人との結婚を期待している亡き夫の弟との関係、そして、未亡人と亡き夫と元の妻との関係、未亡人と亡き夫とその息子との関係。)
(しかし、亡き夫を含む最後の二つの関係は、三角関係というより、亡き夫を媒介とすることで、それ以外の---関係がなかったはずの---二人の関係が生まれた、という関係だろう。三角関係の一項が不在となる---脱去する---ことで、それは二項を結ぶ媒介となる。)
(関係の構造は上記のようなものだとして、その構造を動かす動因は、息子の元を去り、そして再び戻ってくる彼女の存在と、かつて亡き夫の元を去り、再び戻ってくる元妻---息子の母---の存在であろう。一度去った彼女が息子の元に戻り、一度去った元妻が家に戻って未亡人との間に関係を築くことで、未亡人と息子との関係に決定的な変化が訪れる。これが、この映画の関係の時間発展であろう。)
ピンク映画は尺も短く(『東京のバスガール』は63分)、少ない尺の多くは性交場面に費やされるので、大きな事件が起ったり、物語が次々と展開するというような要素が出しにくいと思われ、それが結果として、関係の複雑さと、それによって生まれるテンション、テンションによる揺らぎ、そしてテンションに耐えられない関係の一部分の変化、という物語のあり様が純粋化して前に出てきやすいのではないだろうか。そしてそれは、ドラマ、あるいは演出としては、古典的で端正な様式と相性がよいと感じる(それは、『憐』や『魔法少女を忘れない』の感じとはちょっと違うように思う)。
そのような物語の形式は、一方でシチュエーションコメディのようなものとなり、もう一方で悲劇的なメロドラマになるように思われる。『東京のバスガール』は前者の要素が強く、『夏の娘たち』は後者の要素が強く出ているということだろうか。とはいえ、堀禎一監督の作品の基底には、悲劇性や暗さに対する強い傾倒があるようには感じられる。
●未亡人(義母)と息子が暮らす家に、夫と息子を捨てて出て行った息子の実の母がやってくる場面がある。実の母が来る。未亡人は庭仕事をしている。実の母が未亡人を見る。未亡人も実の母を見る(が、それが誰かを知らない)。実の母は黙って去っていく。それを二階の窓から息子が見ている。この場面のモンタージュを観て、ああ、映画だなあ、と思った。
●追記。『東京のバスガール』で、洗濯して干されている「幼くして亡くなってしまった息子=吉岡睦雄の妹の浴衣を仕立て直してつくられた布巾」は、『夏の娘たち』の道祖神に通じるように思われる。
●「科学者たちが馬のGIFを生きている細菌に書き込んだ---えっ、何の話をしているの?」(TechCrunch)
http://jp.techcrunch.com/2017/07/13/20170712harvard-nature-crispr-cas1-cas2-horse-gif/
CRISPRを使って大腸菌にGIF動画の情報を書き込むって……。しかも、《注目すべきことに、この細菌集団は、その書き込まれたデータには全く影響されることなく増殖を続け、遺伝物質を介してデータを未来の世代に引き渡し続けた》、《インタビューでは、第1著者であるSeth Shipmanが、これは細胞が細胞自身の生存記録などを残すことができるような未来を描き出すための、コンセプトの実証であることを示唆している》とか。つまりこれは、獲得形質(記憶)を遺伝情報として次の世代に伝えることを可能にしようとしているということなのか。
いずれにしても、CRISPRはいろいろヤバすぎる。